魔女たちの長い眠り11

 11 再び、谷へ

 
「弁当を買って来たぞ」
 小西は、ぼんやりと外を眺《なが》めている千枝の膝《ひざ》に、折《おり》詰《づめ》の弁当をのせてやった。
 千枝は、そんなことには気付きもしない様子で、今、この列車が停《とま》っている駅の名前を見ようとしていた。
「あと二時間ぐらいだ」
 小西は、固い座席に腰《こし》をおろした。
「早く発車すればいいのに……」
 と千枝は呟《つぶや》くように言った。
「雨になりそうだな。古傷が痛む」
 小西は、自分の弁当を開けながら言った。「お茶もあるぞ。食べないのか」
 千枝は、父親の方をキッとにらんで、
「よく食べられるわね。あの子がどんな目に遭《あ》ってるかも知れないっていうのに!」
 と、なじるように言った。
 小西が、娘《むすめ》を見た。——哀《かな》しげな眼《まな》差《ざ》しだった。
 千枝が、目を伏《ふ》せて、そっと息をついた。
「ごめんなさい……」
 と、低い声で言う。「私、つい……」
 小西は手を伸《の》ばして、娘の肩《かた》を抱《だ》いた。千枝は、少し涙《なみだ》のにじんだ目で、微《ほほ》笑《え》んで見せた。
「あの子に何かあったら、分るわね。親子ですもの」
「そうさ。あの子はきっと無事でいる」
 小西は肯《うなず》いて見せた。「今のうちに食べておけ。向うへ着いたら歓《かん》迎《げい》してくれるとは思えん」
「ええ。体力をつけておかなくちゃ」
「そうだ。一つ肘《ひじ》鉄《てつ》でもくらわしてやるつもりでな」
 二人は弁当を食べ始めた。
 列車が、一つ大きく揺《ゆ》れて、動き出した。
「本当に、雨になりそう」
 千枝が、鉛《なまり》色《いろ》の空へ目をやって、言った。
 ——ガラガラに空《す》いた車内には、ほんの数人の客が、ポツンポツンと、席を埋《う》めているだけだった。
 ほとんどが居《い》眠《ねむ》りをしていて、ただ、若い一組の男女だけが、何となく沈《しず》んだ様子で、表を眺《なが》めている。——俺《おれ》たちのようだな、と、小西は考えたりしていた。
 千晶が、三木に連れ去られて、十日たつ。
 小西は、自分の力で、何とか三木を追《つい》跡《せき》しようと手を尽《つ》くしたが、結局むだに終っていた。
 三木も、長年刑《けい》事《じ》をつとめたのだ。発見されないように逃《とう》走《そう》することぐらい、容易だったろう。しかし、小西としては、千晶の命がかかっている限り、公に三木を告発することはできなかった。
 千枝は、気《き》丈《じよう》に堪《た》えているが、本当なら、声を限りに、小西を責め立てて当然である。しかし、千枝は、ただ黙《だま》って、唇《くちびる》をかみしめているだけだった。
 それが、小西には、ナイフで刺《さ》されるよりも痛い。
 一体、俺は何ということをしたのだろう。——三木への疑《ぎ》惑《わく》が生じたとき、自分で行動すれば良かったのだ。水本のように、焦《あせ》って三木に気付かれることもなかっただろう。
 自分がやらなかったばかりに、水本と、鑑《かん》識《しき》の平野、二人を死なせてしまった。
 水本と平野は、酒《さけ》酔《よ》い運転の挙《あげ》句《く》の事故死ということになって、ほとんど新聞でも注目されなかった。胸を痛めたのは、小西一人だった……。
 しかも、三木を取《と》り逃《にが》し、千晶をさらわれた。——千晶が生きているのかどうか、小西にも自信はない。
 三木が、千晶を、ただ、逃走の余《よ》裕《ゆう》を作るためだけに利用したのなら、一《いつ》旦《たん》逃《のが》れてしまえば、後はもう子供は足手まといになるだけだろう。
 そうなれば、どこかへ放り出して行くか、でなければ殺すか、だ。千晶は八歳《さい》である。もう、人の顔を、充《じゆう》分《ぶん》に憶《おぼ》えていられるし、警察へ電話するという知《ち》恵《え》もある。
 もし、俺が三木だったら——小西は思った——千晶を殺すだろう。
 待っていてもむだだと悟《さと》ったとき、小西は、あの町へ、再び出向く決心をした。
 三木はあの町へ戻《もど》ったのに違《ちが》いない。小西は直感的にそう信じていた。
 千枝を同行するのには、ためらいがあった。しかし、残れと言うのは、もっとむずかしいような気がしたのである。
 夫の山崎の方が、むしろ千枝よりショックを受けていて、小西は彼《かれ》に残ってもらうことにした。
 何といっても千枝は実の娘《むすめ》である。生死をかけた旅には、血のつながりが、やはりふさわしい。
 小西は、黙《もく》々《もく》と弁当を食べている千枝を、そっと横目で見て、ひそかに息をついた。
 千枝は、落ちつきを取り戻している。——我が娘ながら、大したものだ、と小西は思った。いや、母親であることの「強さ」なのだろうか。
 千晶……。おじいちゃんが、必ず助け出してやるぞ。
 頭では、千晶が生きている可能性を冷静に測っていたが、祖父としての小西は、千晶の生存を信じていた。理《り》屈《くつ》を超《こ》えたところで、信じているのである。
 こうして、あの町へと近付くにつれ、小西は気が楽になって来た。
 どんな結果になるにせよ、それを見るときが近付いている。それは、ただ、遠くにあって苛《いら》立《だ》っているよりも、ずっと気楽であった。
 それに、どうせ小西は生きて帰るつもりもなかったのだ。自分のせいで、水本と平野の二人を死なせ、千晶を連れ去られたとき、はっきり言って、小西は死んだのである。
 千晶を再び母親の腕《うで》の中へ戻《もど》し、安全な所まで逃《にが》すこと。それだけが、小西の目的である。
 もちろん、そのためには、闘《たたか》わねばならない。あの町がどうなったか、今の小西には知りようもなかった……。
「——もう充《じゆう》分《ぶん》」
 と、千枝は、半分ほど弁当を残して、包み直した。
「捨てて来よう」
「座席の下へ入れておけば?」
「あっちにくず入れがあったよ」
 小西は立ち上った。「ついでに手も洗って来たい」
「そう。じゃ、お願い」
 小西は、二つの折《おり》詰《づめ》を、紐《ひも》でくくった。
 ガタゴト揺《ゆ》れる列車の中を、小西は、時々よろけながら歩いて行った。多少は、体調が完全に回復していないせいでもあるだろうが、列車の揺れもひどいようだ。
 ——手を洗って、小西は、扉《とびら》の所で足を止めた。
 外は、深い山と谷の交《こう》替《たい》である。どこがどうつながっているのか、皆《かい》目《もく》見《けん》当《とう》もつかない。
 小西は、足首の痛みに、ちょっと顔をしかめ、同時に、また中込依子のことを思い出した。
 三木が、あいつらの仲間だったとしたら、あの事件もまた、解決していなかったことになるのだ。中込依子が幻《げん》想《そう》に取りつかれていたのではない。
 中込依子の話が全部事実だったとするならば——いや、事実だったのだろう。
 少女を次々に襲《おそ》った三木。——彼《かれ》が姿を消してから、事件は全く起っていない。
 あれは、まともな犯罪ではない。妙《みよう》な言い方だが、三木の異常さが、あの町そのものの秘密を語っている、といってもいい。
 だからこそ、三木があの町へ帰った、と小西は考えたのだ。
 誰《だれ》かが、小西たちのいた車両から出て来た。
 あの若い男女の、男の方だ。チラッと小西の方を見て、先へ歩いて行く。
 あんな若い二人が、この列車で、どこへ行くのかな、と小西は思った。
 少し間を置いて出て来たのは、黒っぽい服を着た男で、服は、いやに古ぼけてはいるが、礼服らしい。その下はワイシャツだけで、ノーネクタイだった。
 刑事の習性で、小西は、チラッと見ただけで、その男の風態を、目に止めていた。五十近いだろう。少し粗《そ》野《や》な感じのある男だ。
 小西は、ふと緊《きん》張《ちよう》した。——やはり永年の勘《かん》というものだろう。
 前に通った若い男は、ちょっと小西の方へ目をやって行った。しかし、今の男は、全く小西を見ようとしなかった。
 気付かない、というほどぼんやりした男とは見えなかった。では——。
 小西は振《ふ》り向《む》いた。あの男が、つかみかかって来る。
 一《いつ》瞬《しゆん》の差だった。振り向くのが遅《おそ》かったら、背後から首を絞《し》められていただろう。
 小西は、身を沈《しず》めて、男の腹へ、頭をぶつけて行った。男がよろける。
 殴《なぐ》りかかって来るのをよけたとたん、列車がガタン、と大きく揺《ゆ》れた。小西もよろけて、壁《かべ》にぶつかった。
 体を立て直す間に、男がナイフを握《にぎ》っていた。
「何してる!」
 と、声が飛んで来た。
 あの若者が、男の腕《うで》にかじりついた。
「放せ!」
 男が振り切ろうとした。
 小西は、手刀で男の首筋を打った。ウッと呻《うめ》いて、男が膝《ひざ》をつく。
 小西は足で男の手首をけった。ナイフが飛んで行く。
 一《いつ》旦《たん》、かがみ込んでいた男が、力をこめて小西を下から押《お》し戻《もど》して来た。もちろん、小西にも、いつもほどの力はないのだが、それにしても凄《すご》い力だった。
 男が非常用のレバーへと手を伸《の》ばし、ぐいと引っ張る。扉《とびら》がパッと開いた。
「おい——」
 小西が一歩踏《ふ》み出したとき、もう男の姿は消えていた。
 外は、岩《いわ》肌《はだ》が波打つ険《けわ》しい斜《しや》面《めん》である。
 小西は、一《いつ》瞬《しゆん》、愕《がく》然《ぜん》として突《つ》っ立《た》っていたが、ふと我に返って、非常用のレバーを元に戻した。扉が閉まる。
「——急停車しないんだな」
 と、若者が呆《あき》れたように言った。
「故障してるのかもしれん」
 小西は、少し息を弾《はず》ませていた。「——ともかく礼を言うよ。ありがとう」
「いいえ」
 と、若者は照れたように頭をかいた。
 そこへ、連れの若い娘《むすめ》が、顔を出した。
「どうしたの? 何だか、今誰《だれ》かが、外へ飛び出したみたいだったわ」
「うん。飛び下りた奴《やつ》がいるんだ」
「ここから?」
 娘は、小西を見た。
「この人が、襲《おそ》われてたんだよ」
「あなたじゃなくて?」
 と、娘が若者に訊《き》く。
「待ってくれ」
 小西は遮《さえぎ》った。「君は、何か狙《ねら》われるような理由があるのかね」
「いや、僕《ぼく》は——」
 と、若者が言いかけるのを、
「余計なことはしゃべらないで」
 と、娘が抑《おさ》えた。「席へ戻《もど》りましょ」
「君たち、何の旅なんだね、こんな寂《さび》しい所に」
 と小西が重ねて訊《き》くと、娘の方がうるさそうに小西をにらんだが、ちょっと小《こ》馬《ば》鹿《か》にしたような笑いを浮《う》かべると、
「お化け退治よ」
 と言った。「あなたは?」
「私かね」
 小西は、上《うわ》衣《ぎ》の左側を広げて、拳《けん》銃《じゆう》を見せた。「私は県警の小西警部だ」
「警察?」
「もっとも、これは個人的な旅だが」
 と、小西は二人の顔を交《こう》互《ご》に眺《なが》めて、「吸《きゆう》血《けつ》鬼《き》退治のね」
 二人がハッと息を呑《の》んだ。
 
「じゃ、お姉さんの消息は……」
「まるで分りません」
 と、宮田信江は首を振《ふ》った。
「ご心配ね」
 と、千枝は言った。「私も、何とかして娘《むすめ》を取り戻さなくちゃ」
「そんな子供をさらうなんて!」
 と、本沢が頬《ほお》を紅潮させた。「卑《ひ》劣《れつ》だ!」
「きっと大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》、無事ですよ」
 と、信江が言った。「私たちも、力になりますわ」
「ありがとう」
 千枝は、ちょっと涙《なみだ》ぐんだ。
「——あと三十分だな」
 と、小西は言った。「十五分で、一つ手前の駅に着く。そこで降りよう」
 千枝が、父の方を見た。
「どうして?」
「誰《だれ》かが俺《おれ》を狙《ねら》って来た。つまり、来ることを予期していたんだ。正面からのこのこ入って行くのは得《とく》策《さく》じゃない」
「そうですね」
 と、本沢が肯《うなず》いた。「その町へ、気付かれずに入りたいな」
「小さな町よ。難しいわ」
 と、信江は言った。
 四人は、向き合った座席に集っていた。
 もう他に客はいない。——小西は、本沢と宮田信江の話を、聞いていたのだった。
 同じ目的で戦う者がいる。しかも二人とも若い。小西にとっては、大きな力だった。
「私に考えがある」
 と、小西は言った。「降りた駅の近くで、できるだけ食べる物を買《か》い込《こ》もう。もちろん先は急ぐが、町へ着くのは夕方になる。それでは、向うの思う壺《つぼ》だろう。夜はどこかで過して、夜が明けてから、行動に移る」
「どうするんですか?」
「まず、谷へ行く」
「谷へ?」
 信江が目を見張った。「どうして、あんな所へ?」
「町がどうなっているにせよ、ごく普《ふ》通《つう》の人も通る。三木も、しばらくは人目を避《さ》けていると思う。犯罪者というのは、発覚していないと思っても隠《かく》れるものだ。それには、谷が一番いい」
「そうですね」
 信江は肯《うなず》いて、「でも、場所は分るんですか?」
「見当はつく。——この話をしてくれた若い女性の言葉からね。もう彼《かの》女《じよ》は死んでしまったが……」
 小西は、ちょっと間を置いて、言った。「彼女のためにも、私は闘《たたか》わねばならないんだよ」
 
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