魔女たちの長い眠り01

 1 知らせ

 
 これからいいところ、というときに電話が鳴った。
「もう、せっかく犯人が分るとこなのに……」
 尾《お》形《がた》洋《よう》子《こ》は、TVから目を離《はな》さずに、呟《つぶや》いていた。——出ないで、放《ほ》っとこうかな。
 しかし、洋子は、自分が結局、電話に出てしまうのが分っていた。この六 畳《じよう》と四畳半という、古典的構成のアパートに同居している宮《みや》田《た》尚《なお》美《み》なら、きっと、
「用がありゃ、またかけて来るわよ」
 と、平気で放っておくだろうが、洋子はそういう性格ではないのだ。
 三回も鳴ると、もしかしたら、何か緊《きん》急《きゆう》の用件かもしれない、なんて思ってしまう。
 実際のところ、尚美も洋子も、そんなに急を要する電話が入ることは、まず考えられなかった。どっちも、中小企《き》業《ぎよう》の——どちらかというと「中」よりは「小」の部類に入る——あまりパッとしないOL暮《ぐら》しだったからだ。
 もちろん、もう結構長く勤めていて、洋子は七年、尚美は八年という古顔だった。ただ、年《ねん》齢《れい》からいうと、短大出の洋子が二十七歳《さい》、高卒の尚美は一つ年下の二十六だ。どっちにしても、そろそろ「結《けつ》婚《こん》」という言葉が、少々重味をもって響《ひび》き始める年代には違《ちが》いない。
 それは、「現実味」を帯びて来る、と言い換《か》えてもいいかもしれなかった。二人とも、正月休みなどに帰郷すれば、ワッと見合写真と「集団見合」をさせられるようになって、すでに三年はたっている。
 だから、今度の正月は、もう帰るのやめて二人で旅行でもしようか、などと洋子と尚美は話し合っていた……。
 電話が五回鳴ったところで、洋子は受話器を上げた。
「はい」
 尾形です、とも、宮田ですとも言えないので、向うが何か言うのを待っている。洋子の目は、TVの方に向いたままで、サスペンスものの二時間ドラマが、今、突《とつ》如《じよ》として終ろうとしているのを、半ば呆《あき》れたように見つめていた。——何しろ、どう見ても四、五歳しか年の違わない恋《こい》人《びと》同士が、実は偶《ぐう》然《ぜん》親子だったと分ったというのだから、正に「サプライズ・エンディング」である。
「も、もしもし、洋子?」
 何だかザワザワした所からかけているらしいが、いくらTVに気を取られていても、同居人の声ぐらいは分る。
「何だ、尚美なの。どうしたの?」
 と訊《き》きながら、洋子は、今夜、尚美がデートしていたことを思い出していた。
 相手は二つ年下の「可《か》愛《わい》い」桐《きり》山《やま》君だ、と聞かされていた。もっとも、「可愛い」というのは、尚美の言葉で、洋子はその実物を目にしたことがない。
 尚美の会社の同《どう》僚《りよう》ということだったが、——お断りしておくが、尚美と洋子は全然別の会社に勤めているのである——ともかく、いい男のいない職場にポッと飛び込《こ》んで来たので、その争奪戦たるや、凄《せい》絶《ぜつ》なものであったらしい。
 その中で、尚美は一歩先んじてはいるようであった。
「——もしもし、尚美? どうしたの?」
 向うが、なかなかしゃべり出さないので、洋子はくり返した。とたんに——。
「やったわよ!」
 と、尚美の叫《さけ》び声が飛び出して来て、洋子は仰《ぎよう》天《てん》した。
「な、何よ、一体!——ああ、びっくりした!」
「ごめん! でも——ついにやったの!」
 どうやら電話の向うでは、尚美が縄《なわ》跳《と》びよろしくジャンプしているらしい。
「やった、って、何のこと?」
「あのね、彼《かれ》が——桐山君が、結《けつ》婚《こん》を申《もう》し込《こ》んで来たの!」
「へえ……」
「あら、もっと喜んでよ」
「催《さい》促《そく》しないでよ。でも、おめでとう」
「ありがとう! 洋子には真っ先に知らせたくってね」
「良かったね」
「うん。——ちょっと考えてみます、とかもったいつけて、レストランから今出て来たとこなの」
「じゃ、桐山君は返事を待ってるわけ?」
「そうなの。少しじらしちゃおうかな、と思ってね。不安そうな顔すると、可《か》愛《わい》いのよね本当に」
「私、知らないのよ」
「あ、そうか。じゃ、今度 紹《しよう》介《かい》するわね。——もう寝《ね》るとこだった?」
「まだ十一時よ。明日は日曜日だし」
「そうね。——ともかく、そういうことなの。先に寝ててね」
「どうぞごゆっくり」
「じゃあ!」
 まるで、小学生だね、あの喜びよう。
 洋子は電話を切った。——TVの方は、もうラストのクレジットタイトルが出ているところだ。
「やった、か……」
 洋子は呟《つぶや》いた。
 尚美が結婚する。——そうなると、洋子の方にも、色々と影《えい》響《きよう》が出ることになるのだ。
「そうかあ……。一人になっちゃうわけだ」
 この部《へ》屋《や》、大したアパートではないのだが、それでも家賃を折半しているから、まあ何とかやって行ける。これで尚美がいなくなれば、家賃は全額、洋子の負担になるわけだ。
「苦しいなあ……」
 おめでとう、とは言ったものの、洋子にとっては、あまりいい話じゃない。
 もちろん精神的ショック——先を越《こ》されたという思いも、ないではないが、それは取りあえず別として、現実的にも、洋子はかなり考え直さなくてはならなくなる。
 もっと小さい部屋に移る、ったって、引越しの費用や、また新たに敷《しき》金《きん》や権利金を払《はら》うこと、それに部屋探しの苦労を考えれば、容易ではない。それぐらいなら、ここで頑《がん》張《ば》って……。でも、いつまで?
 その見通しが立たない、というのは、誠に気の重い話である。尚美の勤め先と同様、洋子の勤め先には、およそ付き合いたくなるような独身の男性がいない。妻子持ちでも、奪《うば》いたくなるような、魅《み》力《りよく》のある中年もいない……。
「よく考えなきゃね」
 来週の予告編を見ながら、洋子は、立てた膝《ひざ》をかかえ込んで、そう呟《つぶや》いた。そこへ、また電話。
 TVを消してから、受話器を上げると、
「あ、洋子? ごめんね、何度も」
 と、また尚美の声である。
「どうしたの?」
「あのね……ちょっとね、色々あるもんだからね、だから——今夜、帰らないわ」
「え?」
「うん、つまりね、ほら、これからさ、行こうか、って誘《さそ》われちゃったの」
「どこへ?」
「——ホテル」
 へえ。なるほどね。
「へえ。なるほどね」
 思った通り、言うしかないじゃないの!
「ね、悪いけど、だから今夜はたぶん……」
「いいわよ、私、子供じゃないもん。一人だって泣いたりしないから」
「ごめんね。でも、せっかくいいムードなんだもん。こういうことって、ほら、何となく成り行きっていうか……」
「言いわけしなくたっていいよ」
 と、洋子は苦笑して言った。「ま、どうぞお幸せに」
「ありがと。じゃ——明日ね」
「はいはい」
 洋子は、受話器を置いて、ますます気がめいってしまった。またTVを点《つ》けてみたものの、何も見たいものがなく、消してしまう。
「いい気なもんだわ」
 この年《と》齢《し》になって——といっても、週刊誌に書かれている記事よりは、もっとまともなはずだが——洋子も尚美も未経験なのだ。
 それなのに、尚美ったら……。何もわざわざ、あんなこと、電話で言ってよこさなくてもいいじゃないの! 当てつけがましく、さ。
 今度は腹が立って来て、寝《ね》ることにした。その前にお風《ふ》呂《ろ》だ。
 小さな浴《よく》槽《そう》なので、すぐにお湯も入る。
 布《ふ》団《とん》を敷《し》いて——一組だけだ——着《き》替《が》えを出しているうちに、もう充《じゆう》分《ぶん》にお湯も入って、洋子は服を脱《ぬ》いだ。
 尚美、彼《かれ》と二人で入ってるのかな、などと考えたりして……。ため息と共にお湯に身を沈《しず》めてじっとしていると、そのうち、腹立ちもおさまって来た。
 そう。——心底では、少々嫉《や》いていると同時に、喜んでもいるのだ。何しろ、一《いつ》緒《しよ》に五年も暮《くら》した、親友同士なのだから。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》かなあ」
 と呟《つぶや》く。
 二人で暮していて、どちらかというと、洋子の方が姉、尚美が妹、というタイプであった。尚美がしっかりしていない、というのではないが、見た目も可《か》愛《わい》い感じだし、のんびり屋なのである。
 本来、洋子は末っ子で、尚美は妹もいると聞いていたから、逆になりそうなものだが、そこは、持って生れた性格なのだろう。
 そう。——きっと、尚美があんな風に電話して来たのも、ただ嬉《うれ》しくて黙《だま》っていられなかったというだけではなくて、きっと、いくらかは、初めての経験への不安もあったのに違《ちが》いない。
 何か言ってやれば良かったかしら? でも、私だって、未経験なんだから。それに、結《けつ》婚《こん》前にそんなことしちゃいけないわ、なんて言えやしないし……。
 まあ、子供じゃないんだ。どうってことはないだろう。明日、帰って来たら、お祝いでもしてやって……。根《ね》掘《ほ》り葉掘り訊《き》き出してやろうかな。
 しきりに照れる尚美の顔を想像して、洋子は一人でクスクス笑っていた。
 ——風《ふ》呂《ろ》から上って、まだバスタオル一つでいると、また電話が鳴り出した。もう十二時近くである。
「まさか、無事に済みました、なんて報告じゃないでしょうね」
 と呟《つぶや》きながら、受話器を取った。「もしもし」
「あの——宮田尚美はおりますか?」
 太い男性の声だ。
「いえ……。今、おりませんけど、どちら様で——」
「父でございますが」
 洋子はびっくりした。
「まあ! どうも失礼しました。私、尾形洋子と申します。尚美さんと一《いつ》緒《しよ》の部屋に——」
「お話はうかがっております。いつも尚美がお世話になって。尚美、おりませんですか?」
「はあ。あの——今夜は、会社の人と一緒に——旅行へ行ってまして」
 苦しいところである。解釈次第で、嘘《うそ》とも言えない。
「いつ戻《もど》りましょう」
「明日には戻ります。何か、お伝えしましょうか?」
「そうですか。いや——」
 向うは、ためらっているようだった。「また明日でも電話するようにしますが……」
「そうですか。じゃ、もし連《れん》絡《らく》があったら、すぐそちらへ——」
 と言いかけたのを、向うは思い直したように遮《さえぎ》って、
「では一応伝えて下さい。実は家内が——尚美の母が、今夜、亡くなりまして」
「まあ」
 洋子は絶句した。そんなに大変な知らせとは思いもしなかったのだ。しかし、尚美が桐山という男と、どのホテルへ行ったのか、見当もつかない。
「それはどうも……。あの——では、戻りしだい、すぐ、そちらへ電話を入れるように伝えます」
「どうぞよろしく」
 と、父親は言った。「それから、尚美に、こちらへは帰らないように言って下さい」
「え?」
 思わず、洋子は訊《き》き返していた。「帰らないように——ですか?」
「はあ。事情はまた改めて説明します。ともかく、何も聞かずにこっちへ来るようなことはするな、と伝えて下さい。必ず、お願いします」
「かしこまりました」
 ——電話を切って、洋子は、奇《き》妙《みよう》な不安に、捉《とら》えられていた。
 母親が死んだ。普《ふ》通《つう》なら、大変なことではないか。それなのに、父親の言葉は、むしろ、娘《むすめ》に「帰るな」と伝えることの方に、こだわっていたように聞こえた。
 なぜだろう?
 尚美からは、両親の話も、故郷の小さな町の話も、そう詳《くわ》しくではないが、聞かされている。その限りでは、家庭に特別の事情があったとも思えなかったのだが……。
 しかし、母親が死んでも、帰るな、というのは、ちょっとまともではない。一体、なぜなのだろう?
 洋子は、もう一度、電話を眺《なが》めた。尚美ったら、かけてほしいときには、かけて来ないんだから。
 まあ——ともかく、どんな事情があるにせよ、あまり他人が口を出すことではない。洋子としては、人《ひと》並《な》みの好《こう》奇《き》心《しん》の持ち主ではあったから、興味をかき立てられはしたのだが、尚美が自分から話してくれればともかく、こっちからしつこく訊《き》くのはやめておこう、と思った。
 洋子は身《み》震《ぶる》いした。——バスタオル一つという格《かつ》好《こう》だったのだ。
 あわてて、パジャマを着ながら、洋子は派《は》手《で》にクシャミをした。
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