魔女たちのたそがれ25

 24 平《へい》 和《わ》

 
「これは小西警《けい》部《ぶ》——」
 河村が、急《いそ》いで外へ出て来た。「足をどうなさったんですか」
「ちょっとしたけがでね」
 と、小西は言った。「突《とつ》然《ぜん》ですまん」
「いいえ。こちらの椅《い》子《す》へどうぞ」
 ステッキを突《つ》いた小西は、やっと椅子に辿《たど》りついて、腰《こし》をおろした。
「お茶でも淹《い》れさせましょう」
 河村が、妻《つま》を呼《よ》んだ。
 小西は町を眺《なが》めた。
 明るい昼下り、この田舎《 い な か》の町は、静《しず》かで、平和そのものだった。
 ここで恐《おそ》ろしい殺《さつ》人《じん》があったとは、誰《だれ》が信《しん》じるだろう?
 しかも、みんな、それを押《お》し隠《かく》して、ごく当り前に暮《くら》している。
「そうそう」
 と、河村が戻《もど》って言った。「実《じつ》は、ご報《ほう》告《こく》しなきゃならんことがありまして」
「ほう」
 小西は、出されたお茶《ちや》を一口飲《の》んで、河村を見た。
「どんなことだね」
「小学生が殺《ころ》された事件なんですが」
「角田栄子殺しだね」
「はい」
 と、河村が肯《うなず》いた。「実《じつ》は昨《さく》夜《や》、父親が自殺したんです」
「何だって?」
 小西は、思わず訊《き》き返した。「自殺した?」
「はい。それで、遺《い》書《しよ》の中に——自分が娘《むすめ》を殺した、と告《こく》白《はく》がありました」
「角田が娘《むすめ》を……」
「精《せい》神《しん》の病《びよう》気《き》で、悩《なや》んでいたようです。この町では名《めい》士《し》だったので、公《こう》表《ひよう》しない方が、という声もあったんですが、やはりそういうわけには……」
「もちろん報《ほう》告《こく》するべきだ」
 と、小西は言った。「——ところで、実《じつ》は、ちょっと会ってみたい娘《むすめ》がいるんだ」
「この町の者《もの》ですか?」
 小西は肯《うなず》いて言った。
「栗原多江というんだがね」
「分りました。お待《ま》ち下さい。連《つ》れて来ます」
 河村が急《いそ》いで出て行く。
 小西は、落《お》ちつかなかった。——どこか、おかしい。
 栗原多江の名を出しても、一《いつ》向《こう》に反《はん》応《のう》を示《しめ》さないのだ。こんなはずはないが……。
「警《けい》部《ぶ》!」
 と、声がした。
 振《ふ》り向《む》くと、三木刑《けい》事《じ》がやって来るところだった。
「三木か!」
 小西はホッとした。
「どうしたんです、その足?」
「そんなことはいい」
 と、小西は苛《いら》立《だ》たしげに言って、「どうしたんだ、津田は?」
「それが——」
 と、三木は表《ひよう》 情《じよう》を曇《くも》らせた。「事《じ》故《こ》がありまして」
「事故?」
「用心しろと言ったんですが……。ともかく夜の内《うち》に、谷へ行くといって聞かないんですよ。——止めたんですが」
「それで?」
「結《けつ》局《きよく》、仕《し》方《かた》なく二人で出かけまして……。途《と》中《ちゆう》、はぐれてしまったんです」
 と、三木は言った。「今《け》朝《さ》になって、捜《さが》してみました。——崖《がけ》から落ちたようです」
 小西は、我《われ》知《し》らず、ステッキを握りしめていた。
「死《し》んだのか」
「はい」
 と、三木は肯《うなず》いた。「ただ、一つ発《はつ》見《けん》がありました」
「というと?」
「とても足を滑《すべ》らせやすい場《ば》所《しよ》なんです。しかも人目につきにくい。——もう一つ、かなり時間のたった死体がありました」
 小西は、じっと三木を見つめた。
「田代か」
 三木が肯く。
「間《ま》違《ちが》いないと思います。やはり足を滑《すべ》らせたんでしょう。所《しよ》持《じ》品《ひん》があったので、持って来ました」
「そうか……」
 小西は、すっきりしなかった。
 三木は、田代が殺《ころ》されたのでは、とあんなに心《しん》配《ぱい》していた。それなのに、なぜ今は田代の死《し》を、事《じ》故《こ》だと思っているのか。
「それで——」
 と、小西が言いかけたとき、
「お待《ま》たせしました」
 と、河村が戻《もど》って来た。「この娘《むすめ》です」
 十六、七の娘が、多少緊《きん》張《ちよう》した様《よう》子《す》で、立っていた。
「——栗原多江です」
 と、娘は頭を下げた。「私《わたし》に何か……」
 小西は、しばらく言《こと》葉《ば》が出なかった。
 これは別《べつ》人《じん》なのだろうか? 幽《ゆう》霊《れい》ではあるまい。
「いや——ここの小学校の中込依子という先生を知ってるかね」
「はい」
 と、多江は、ちょっと不《ふ》安《あん》げに小西を見た。「先生に、何かあったんでしょうか?」
「というと?」
 多江は、ちょっとためらって、河村の方を見た。河村が咳《せき》払《ばら》いをして、
「実《じつ》は……中込先生は、ノイローゼで、大分前から、もう授《じゆ》業《ぎよう》をしておられなかったんですよ」
「ノイローゼ?」
「ええ。中込先生はとても真《ま》面《じ》目《め》な方でした。水谷というもう一人の先生が、公《こう》金《きん》横《おう》領《りよう》で逃《に》げて、結《けつ》局《きよく》、自分で喉《のど》を切って死《し》んでしまったんですが、その分の仕《し》事《ごと》も、中込先生が全《ぜん》部《ぶ》、一人でしょっておられて……」
「おかしくなったというのかね」
「そうなんです」
 多江は肯《うなず》いた。「ただ——とてもいい先生だし、しばらく、休んでいただこうと、町の人たちで相《そう》談《だん》して決《き》めたんです」
「この子の叔《お》母《ば》のところで部《へ》屋《や》があいていたもので、そこへ入っていただいて、この子が面《めん》倒《どう》を見ていたんです」
「叔《お》母《ば》さんは何という名だね?」
 と小西は訊《き》いた。
「大沢——和子といいます」
 大沢和子? 殺《ころ》されたはずの女ではないか!
「でも、一《いつ》向《こう》に良《よ》くならなくて」
 と、多江は言った。「殺されるとか、逃《に》げなきゃ危《あぶ》ないとか、そんなことを口走っておられて……。そして、本当にいなくなってしまったんです」
「この子のせいじゃありません」
 と、河村が取《と》りなすように言った。「ともかく、二十四時間ついているわけに行きませんから。行《ゆく》方《え》不《ふ》明《めい》になって、捜《さが》していたんですが……」
「そうか……」
 小西は言った。「彼《かの》女《じよ》は死んだよ」
「まあ!」
 と、多江が息《いき》を呑《の》んで、手を握《にぎ》り合わせた。
「自《じ》殺《さつ》のようなものだった」
「そうでしたか」
 と、三木が呟《つぶや》くように言った。
「ところで——」
 と、小西は三木の方を見た。「谷の方の様《よう》子《す》はどうだったんだ?」
「谷のことをご存《ぞん》知《じ》ですか」
 と、河村が意《い》外《がい》そうに、言った。「あそこは昔《むかし》、この多江なども住《す》んでいたんですが、ともかく不《ふ》便《べん》な所《ところ》でして。——今はみんな、ここの町へ移《うつ》って来ているんですよ」
「ここへ?」
「ええ。もう谷はゴーストタウンになってます」
 小西は三木を見た。三木が、ちょっと肯《うなず》いて見せる。
 信《しん》じがたい思いだった。——あの、依子の話が、総《すべ》て、彼《かの》女《じよ》の空《くう》想《そう》の産《さん》物《ぶつ》だったというのか?
 しかし、現《げん》実《じつ》に、この多江という娘《むすめ》は生きている。そして、谷にも人のいる形《けい》跡《せき》がないとしたら……。
「——町で、最《さい》近《きん》、変《かわ》ったことはないかね」
 と、小西は訊《き》いた。
「さあ……。その、中込先生のことぐらいでしょうか」
 と、河村は考えながら言った。
「他《ほか》には?」
「まあ——角田栄子殺《ごろ》しも、水谷先生の件《けん》もありましたがね。それはそれで、この町では大《だい》事《じ》件《けん》でしたが」
「——多江さん、だったね」
 と小西は言った。
「はい」
「レストランで働《はたら》いてるのかい?」
「ええ、そうです。ご存《ぞん》知《じ》なんですか?」
「恋《こい》人《びと》は?」
「恋人——ですか?」
 多江は目を丸《まる》くした。「まだ、私、若《わか》いですから。そんな人、いません」
「そうか」
 小西は肯《うなず》いた。——ここまでやって来たのは、虚《むな》しい旅《たび》だったのか? しかし、あの依子の話が……。
「まあ、何しろ平《へい》和《わ》ですよ、小さな町ですから」
 と、河村が言った。「大した事《じ》件《けん》なんて、起《おこ》るわけもありませんからね」
 小西は、もうここにいる気にはなれなかった。
「——三木。帰るか?」
 と言った。
「少し残《のこ》ってます。明日中には、必《かなら》ず戻《もど》ります」
「分った」
「送《おく》りましょうか?」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だ。パトカーの所《ところ》まで、ついて来てくれ」
「はい」
 三木に腕《うで》を取《と》られるようにして、歩いて行く。小西は低《ひく》い声で言った。
「——何も、おかしい所《ところ》はないのか?」
「ええ」
 三木は首を振《ふ》って、「我《われ》々《われ》、結《けつ》局《きよく》、あの中込依子の妄《もう》想《そう》に付《つ》き合わされただけじゃないんですか?」
 と言った。
 小西は、パトカーに乗《の》り込んで、息《いき》をついた。——どこかおかしい。
 何もかもが依子の幻《げん》想《そう》だったとは、信じられない。——小西は、依子が、「本当に恐《おそ》ろしいことは、その後に起《おこ》った」と言っていたのを思い起していた。それは、どんなことだったのか?
 そうだ。これで引《ひつ》込《こ》むわけにはいかない……。
 
 パトカーが走り去《さ》ると、三木が戻《もど》って来た。
 多江は、ゆっくりと椅《い》子《す》にかけた。
 さっきとは打《う》って変《かわ》って、河村を、小《こ》馬《ば》鹿《か》にしたような目つきで眺《なが》めていた。
「なかなか上《じよう》出《で》来《き》よ」
 と、多江は河村に言った。「その調《ちよう》子《し》でね、これからも」
 河村は、顔を赤くさせたが、何も言わずに、奥《おく》へ入って行った。
 三木と多江は表《おもて》に出て歩き出した。
 町行く人が、みんな顔を伏《ふ》せ、二人を避《さ》けながら、気《き》付《づ》かないふりをする。
「——納《なつ》得《とく》したと思う?」
 と、多江は訊《き》いた。
「いや、無《む》理《り》だろう」
 と三木は首を振《ふ》った。「あの人は、かなりしつこい」
「でも、何も証《しよう》拠《こ》立てられやしないわ」
 と、多江は言った。「彼《かの》女《じよ》が死《し》んでしまった今となっては、ね」
 三木は、足を止め、ゆっくりと町を見回した。
「活《かつ》気《き》がない町だな」
「夜になれば、みんなが出て来るわ」
 と、多江は言った。「——ねえ」
「何だい?」
「あの人、最《さい》後《ご》までは話さずに死んだのね、きっと」
「そうだろうな。小西さんが戸《と》惑《まど》ってた様《よう》子《す》で分ったよ」
 多江は、ちょっと遠くへ目を向《む》けた。
「あの人は気の毒《どく》だった……」
「中込依子かい?」
「ええ。本心から、私のことを、心《しん》配《ぱい》してくれてたわ」
「——かもしれない。しかし、最《さい》後《ご》まで拒《こば》んだんだろう、僕らの側に加《くわ》わるのを」
「あれは立《りつ》派《ぱ》だったわ。町の他《ほか》の連《れん》中《ちゆう》は、みんな言うなりになったのに、あの先生だけは、意《い》志《し》を貫《つらぬ》いたんですもの」
「しかし、彼《かの》女《じよ》も人を殺《ころ》したよ」
「責《せ》められないわ。——怖《こわ》かったからだわ」
「どういうことだい?」
「夜になると、私たちの暗《あん》示《じ》を思い出すのよ。自分の知らない内《うち》に、行《こう》動《どう》してる……」
「そうか。——僕《ぼく》はてっきり谷の誰《だれ》かがやって来たんだと思ってた」
 と、三木は肯《うなず》いた。
「河村に見《み》張《は》らせたのに。一《いち》度《ど》は車に乗《の》せたのに、また病《びよう》院《いん》へ逃《に》げ戻《もど》ってしまったのよ」
「彼《かの》女《じよ》にとっては不《ふ》幸《こう》だったな」
「そうね」
 多江は、ちょっと目を伏《ふ》せた。
 二人は、学校の見える所《ところ》まで来ていた。
 黄《たそ》昏《がれ》が迫《せま》って、校《こう》舎《しや》がシルエットになって見えていた。
「——長かったわ」
 と、多江は言った。
「谷での暮《くら》しが?」
「ええ。みんなあそこで、一《いち》族《ぞく》が滅《ほろ》びるのを待《ま》つつもりだったのに……。人間って、本当に馬《ば》鹿《か》だわ。見当外れのことで、わざわざ、私たちを駆《か》り立てて……。人間が私たちに勝《か》てるわけがないのに」
「向《むこ》うが仕《し》掛《か》けて来たんだ」
「そうね。角田が、娘《むすめ》を殺《ころ》したのを何とかして私たちのやったことだと思わせようとしたのが、間《ま》違《ちが》いだったのよ」
「もう、今は町ごと、僕《ぼく》たちのものだ」
「そうね」
 沈《しず》んで行く夕《ゆう》陽《ひ》に、多江の笑《え》みがこぼれて、口元に、小さく尖《とが》った歯《は》がチラリと覗《のぞ》いた。
「——河村はどうする?」
 と、三木が訊《き》いた。
「死《し》んでもらうしかないわね。危《き》険《けん》だわ」
 と、多江は言った。
「すぐにはやらない方がいいだろうな」
「もちろんよ。——角田には、娘を殺したと告《こく》白《はく》した遺《い》書《しよ》を書いてもらったから、河村には、水谷を殺したという遺書でも書いてもらう?」
「悪《わる》くないね」
 と、三木は肯いた。
 夜が降《お》りて来た。暗《くら》がりが、町を大きな翼《つばさ》で押《お》し包《つつ》む。
 多江は、三木の腕《うで》を取《と》った。
「さあ、私たちの時間よ」
 二人は町の中へと戻《もど》って行った。
 静《しず》かで、平《へい》和《わ》な町。——夜に支《し》配《はい》されていても、そこは平和な町に違《ちが》いなかった。
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