魔女たちのたそがれ23

 22 危《き》険《けん》な叫《さけ》び

 
 依子が、多江の働《はたら》いているレストランに着《つ》いたのは、もうすっかり夜になってからのことだった。
「——多江さん? 今日は来てないんだよね」
 と、話を聞《き》いて、店の主《しゆ》人《じん》は首を振《ふ》った。
「お休みですか」
「いや、電話もない。珍《めずら》しいことなんでね、心《しん》配《ぱい》してたんだ」
「そうですか」
 依子は、がっかりした。同時に、不《ふ》安《あん》にもなる。
 多江の身《み》に、何か起《おこ》ったのではないか。
 しかし、河村は、まだ多江を逮《たい》捕《ほ》するようなことは言っていなかった。
 ただ、何か多江に急《きゆう》用《よう》ができたのならいいが、河村が、わざわざ、あんなことを言いに来たのが、依子には気になっていたのである。
 何かあるのだ。——何か。
 偶《ぐう》然《ぜん》と考えるのは不《ふ》自《し》然《ぜん》だ。
 依子は、レストランを出た。どこへ行こうか? といって、あの町へこのまま戻《もど》るのは——。
「そうだわ!」
 と、依子は呟《つぶや》いた。
 この町にいる、多江の恋《こい》人《びと》。あそこへ行けば、何か分るのではないか。
 でも——どう行くんだったかしら?
 依子は、あのアパートを捜《さが》して行けるかどうか、自《じ》信《しん》がなかった。
 しかし、やってみるしかない!
 ともかく、まずバス停《てい》に行った。そこから出《しゆつ》発《ぱつ》する。
 ともかく、この前は、ずっと多江の後を尾《つ》けて行ったのだ。道を憶《おぼ》える余《よ》裕《ゆう》などなかった。
 案《あん》の定《じよう》、たちまち依子は道に迷《まよ》ってしまった。右も左も分らない町である。
 しかし、ともかく、道を訊《き》くにも、目《もく》的《てき》地《ち》の住《じゆう》所《しよ》もアパートの名前も分らないのだ。どうしようもない。
 ただ、捜《さが》し歩くしかないのだ。たまたま、うまく、目《め》指《ざ》す場《ば》所《しよ》へ出ることを祈《いの》って……。
 ——幸《こう》運《うん》の女《め》神《がみ》が微《ほほ》笑《え》んでくれたのは、一時間たってからのことだった。
 依子はもうヘトヘトに疲《つか》れていた。——歩くこと、そのことは大して苦《く》労《ろう》ではない。しかし、いつになったら、そこへ辿《たど》りつくのか分らずに歩いているというのは、辛《つら》いことだった。
 それでも——ヒョイ、とそこへ出たときは、ポカンとしてしまった。
 どう考えても、今の道を三回は通ったような気がするのである。でも、確《たし》かに、ここへ出たのは初《はじ》めてだ……。
 ともかく、着《つ》いたのだ!
 部《へ》屋《や》には表《ひよう》札《さつ》も出ていなかった。きっと、面《めん》倒《どう》くさがって、出していないのだろう。
 依子はちょっとドアの前で、呼《こ》吸《きゆう》を鎮《しず》めてから、ブザーを鳴《な》らした。
 ——誰《だれ》も出て来ない。返《へん》事《じ》もない。
 ブザーを、二度、三度と、くり返し押《お》してみる。——しばらく待《ま》ったが、何の応《おう》答《とう》もなかった。
 出かけているらしい。もしかすると、どこかで多江と会っているのかもしれない。
 それならそれでいいのだが……。
 ここで待っていようか?
 ただ、どことなく、おかしかった。
 部屋の明りは点《つ》いている。窓《まど》が、明るくなっているのだ。しかし、耳を澄《す》ましてみても、人のいる気《け》配《はい》がない。
 十五分ほど、表《おもて》に立っていたが、一《いつ》向《こう》に戻《もど》って来る気配はなかった。どうしたものか、依子は迷《まよ》った。
 せっかく捜《さが》し当てたのに、帰る気にはなれない。それに、明りが点いているのだから、戻《もど》って来るだろう。
 そして——何気なく、依子は、ドアのノブを回してみた。ドアが開《あ》いて来る。
 ずいぶん無《ぶ》用《よう》心《じん》なことだ、と思った。
 開けっ放《ぱな》しで、こんなに長い間、留《る》守《す》にするなんて……。
 何だか、おかしい、と思った。
「いますか」
 と、小さな声で言って、中を覗《のぞ》き込んだ。「あの——誰《だれ》か——」
 玄《げん》関《かん》へ、一歩入る。
「ええと……。あの——誰かいます?」
 依子は、そう声をかけて、部《へ》屋《や》の中を覗《のぞ》き込んだ。
 首を伸《の》ばして、奥《おく》を見たとき、それが目に入った。
 ギョロリと白《しろ》眼《め》をむいた男の死《し》体《たい》、首に、細《ほそ》い紐《ひも》が巻《ま》きついている。
 依子は、しばらく、それがTVの映《えい》像《ぞう》か何かで、時間がたてば消《き》えてしまうのではないかと思って、立っていた。
 いや、実《じつ》際《さい》には、何も考えずに、立っていたのだ。——どれくらい?
 一時間か、一分か、それも定《さだ》かではなかった。
 あの多江の恋《こい》人《びと》に違《ちが》いない。しかし、なぜ、誰《だれ》に殺《ころ》されたのだろう?
 いや、そんなことは後で考えればいいのだ。
 今は——この場《ば》でどうしたらいいか、それを考えるのが先《せん》決《けつ》である。
「落《お》ちついて。しっかりして」
 と、口に出して呟《つぶや》く。
 あまりに思いがけないことに出くわしたとき、いつも依子はこうするのだった。
 ともかく、このまま放《ほう》っては行けない。
 しかし、ここで警《けい》察《さつ》へ連《れん》絡《らく》したら、しばらくはあれこれ訊《き》かれて、引き止められるだろう。それに、ここへなぜ来たのか、そこから説《せつ》明《めい》しなくてはならない。
 それは容《よう》易《い》なことではなかった。
 そうだ。——それに、もしかすると、多江に容《よう》疑《ぎ》がかかることも考えられる。
 ここは、一《いつ》旦《たん》引き上げるしかない。
 そう決《き》めると、後は割《わり》合《あい》に考えがまとまった。ともかく、まずハンカチで、手の触《ふ》れた所《ところ》の指《し》紋《もん》をふき取《と》る。
 ドアのノブも、である。——重《じゆう》要《よう》な証《しよう》拠《こ》を消《け》してしまったのかもしれないが、仕《し》方《かた》あるまい。
 外へ出て、アパートの名前を憶《おぼ》え込《こ》んだ。
 もちろん、周《しゆう》囲《い》に人のいる気《け》配《はい》はなかった。
 依子は歩き出した。
 大方の見《けん》当《とう》で歩いて行ったのだが、今《こん》度《ど》はスンナリとバス停《てい》に着《つ》いた。
 依子は、公《こう》衆《しゆう》 電話で一一〇番へかけ、アパートの名前を言って、
「そこの二号《ごう》室《しつ》に、死《し》体《たい》があります。よろしく」
 とだけ言って、切った。
 向《むこ》うは、さぞかしキョトンとしていることだろう。
 依子は、バス停《てい》に行って、何食わぬ顔でバスを待《ま》っていた……。
 
 戻《もど》るバスの中で、依子は、やっと事《じ》態《たい》を検《けん》討《とう》し始《はじ》めた。
 あの男は、なぜ殺《ころ》されたのか?
 多江の行方を知っていると思われたのかもしれない。少なくとも、この時《じ》期《き》に殺されたというのは、偶《ぐう》然《ぜん》ではないのではないか。
 何か関《かん》連《れん》があるのだ。——おそらく。
 水谷が殺され、多江に疑《うたが》いがかかる。
 そして、多江の恋《こい》人《びと》が殺された。
 ——多江がやるはずはない。しかし、多江はどこにいるのだろう?
 バスを降《お》りて、暗《くら》い道を歩くのも、大分慣《な》れた。
 もちろん、危《き》険《けん》を感《かん》じないわけではないが、少し開《ひら》き直《なお》って来ているのである。
 学校に、明りが見えるのに気《き》付《づ》いて、依子は緊《きん》張《ちよう》した。水谷がいない今、学校へ夜来ているような人間がいるはずはない。
 もしや。——多江ではないか、と思った。
 依子は、少々無《む》鉄《てつ》砲《ぽう》だとは分っていたが、一人で、足音を忍《しの》ばせるでもなく、校《こう》舎《しや》の中へ入って行った。
 明りは職《しよく》員《いん》室《しつ》だ。——依子は、廊《ろう》下《か》に立って、声をかけた。
「誰《だれ》なの?」
 自分が明りを消《け》し忘《わす》れたことはない。
 ここを出るときは、いつもしつこいぐらい、確《たし》かめている。
 職員室の中へ入る。——依子の机《つくえ》の明りが点いていた。
「誰かいるの?」
 と、もう一《いち》度《ど》言った。
 そのとき、いきなり、後ろから手が伸《の》びて来た。
 ぐい、と依子の肩《かた》をつかむ。依子は、思わず、
「キャッ!」
 と、声を上げた。
「先生、危《あぶ》ないですよ」
 河村だった。「こんな時間に、何をしてるんです?」
 依子は、何とか平《へい》静《せい》を装《よそお》った。
「どうも……。明りが見えたので」
 と、机《つくえ》の方を手で指《さ》した。「河村さんが点けたんですの?」
「いいえ。私《わたし》は今、来たところですよ」
「おかしいわ」
 と、依子は首をかしげた。「じゃ、誰《だれ》がつけたのかしら」
「先生、点けたままにしておいたんじゃありませんか?」
「いいえ。でも——」
 依子はちょっとためらって、「そうかもしれませんね」
 と言った。
 もし、ここに多江がいたのなら、わざわざ河村にそれをほのめかしてやる必《ひつ》要《よう》もないだろう。
「町へ戻《もど》られますか」
 と、河村が言った。
「ええ」
「じゃ、ご一《いつ》緒《しよ》に」
 断《ことわ》るわけにもいかない。
 心《こころ》残《のこ》りではあったが、明りを消《け》し、河村と一緒に、校《こう》舎《しや》を出た。
「——お出かけでしたか」
 と、河村が訊《き》く。
 分ってるくせに、と、ちょっと腹《はら》が立ったが、それを押《お》し隠《かく》して、
「デートですの」
 と、おどけて見せた。
「やあ、そりゃ羨《うらやま》しい」
 河村は微《ほほ》笑《え》んだ。「先生、さぞ、もてるでしょう!」
「とんでもない。振《ふ》られてばっかりなんですよ」
「そうかなあ。——町の連《れん》中《ちゆう》は、恐《おそ》れ多くて、手が出せんでしょうが」
「怖《こわ》くて、じゃないかしら」
 と、依子は笑った。
 ——町は、何となく様《よう》子《す》がおかしかった。
 ざわついている、というのか。夜のこの時間にしては、人が出歩いていた。
 それも、珍《めずら》しく、足早に、忙《いそが》しく動《うご》き回っているのだ。
「どうしましたの?」
 と、依子が訊《き》いた。「何かあったんでしょうか?」
「ああ、みんな騒《さわ》いでるんです」
 と、河村は、大して気にもしていないようだ。
「どうして?」
「ああ、言い忘《わす》れてた」
 と、河村は笑《わら》って、「昼間——というか夕方お話しした、栗原多江という女の子ですが」
「その人が何か?」
「今、留《りゆう》置《ち》してあるんです」
 と、河村は得《とく》意《い》気《げ》に言った。
 依子は、一《いつ》瞬《しゆん》、足を止め、
「留置?」
 と訊《き》き返《かえ》していた。「でも——何か証《しよう》拠《こ》が?」
「まず、あの娘《むすめ》が犯人ですよ」
 と、河村は断《だん》言《げん》した。
「でも——その人は、今、どこにいるんですか?」
「ここの留置場です。みんなが騒《さわ》いでるんですよ」
「というと……」
「あの娘《むすめ》が、角田栄子ちゃんも殺《ころ》したという噂《うわさ》が広まってるんです」
「何ですって?」
 依子は息《いき》を呑《の》んだ。
「いや、どうしてそんな話になったのか、よく分らんのですよ」
 と、河村は首を振《ふ》った。
「——町の人たちは、何を騒《さわ》いでるんですか?」
「血《ち》の気の多いのがいますからね」
「まさか——私刑《 リ ン チ》を?」
「言うだけです。やる奴《やつ》はいませんよ」
 そんな話が出るだけでも、大きなショックだった。
「誰《だれ》かついてるんですか」
 と、依子は訊いた。
「ついてる、といわれますと?」
「その栗原多江に、です」
「留《りゆう》置《ち》場《じよう》です、手は出せませんよ」
 と、河村は言った。
 そう。——まさか。西《せい》部《ぶ》劇《げき》じゃあるまいし!
 しかし、依子は不《ふ》安《あん》だった。
 これはまともではない! 何かが、裏《うら》で動《うご》いているのではないか……。
 
 依子は眠《ねむ》れなかった。
 もちろん、多江のことが気になっていたのである。——会いに行ってやれば良《よ》かったかしら?
 しかし、多江と話したことを、河村に知られるのは、避《さ》けた方がいいと思った。
 多江は、どんな思いで、留《りゆう》置《ち》場《じよう》にいるのだろう。——依子は、それを想《そう》像《ぞう》しただけで、胸《むね》が痛《いた》かった。
 様《よう》子《す》がおかしいと気《き》付《づ》いたのは、夜中の三時ごろだった。
 表《おもて》が騒《さわ》がしい。人が怒《ど》鳴《な》ったり、大声を上げたりしているのが、耳に入って来る。
 こんな時間に。——依子はすぐに起《お》き出して、服《ふく》を着《き》た。
 窓《まど》を開《あ》けて、通りを見た依子は、びっくりした。
 この町の人間が、みんな出て来たのかと思うほどの人である。
「——かたをつける時だ!」
 と、どこかで聞いたことのある声が、耳に飛《と》び込《こ》んで来る。
 角田だった。
 何か台の上に乗《の》っているらしく、集《あつ》まった町の人々へ、演《えん》説《ぜつ》をぶっているようだった。
「私の娘《むすめ》は、無《む》惨《ざん》に絞《し》め殺《ころ》された」
 角田は声を震《ふる》わせた。「あの子が何をしたというんだ? 罪《つみ》のない子《こ》供《ども》を、絞め殺して平《へい》気《き》な顔をしてるなんて奴《やつ》は、人間ではない!」
 オーッという声が上った。
 依子はゾッとした。角田は続《つづ》けた。
「我《われ》々《われ》はあの連中に寛《かん》大《だい》すぎたのだ。我々は間《ま》違《ちが》っていた。あいつらは、もうとっくに滅《ほろ》ぼしておかねばならなかったのだ!」
「そうだ!」
「今からでも遅《おそ》くないぞ!」
 と、声が返《かえ》って来る。
「まずあの娘だ!」
 と、角田は叫《さけ》ぶように言った。「今、留《りゆう》置《ち》場《じよう》にいる娘《むすめ》だ。あいつが私の娘を殺《ころ》した、と誰《だれ》かが言っている。——それは正しいのかもしれん。間《ま》違《ちが》っているかもしれん。しかし、そんなのは、本《ほん》質《しつ》的《てき》な問《もん》題《だい》じゃない」
 依子は、足が震《ふる》えるのを感《かん》じた。
「問題は——」
 と、角田は続《つづ》けた。「あの娘が、いつかは泥《どろ》棒《ぼう》になり、人殺しになるということだ。それははっきりしている。我々にはそれを防《ふせ》ぐ権《けん》利《り》が——いや、義《ぎ》務《む》がある!」
 拍《はく》手《しゆ》が湧《わ》いた。それは熱《ねつ》狂《きよう》的《てき》と言っていい拍手だった。
「行こう!」
「留置場から引きずり出せ!」
「谷を焼《や》き払《はら》え!」
 口々に叫びながら、町の人々は、警《けい》察《さつ》署《しよ》へ向《むか》って歩き出した。
 依子は、呆《ぼう》然《ぜん》として、しばし動《うご》けなかった。これは夢《ゆめ》だ。悪《あく》夢《む》なんだ。
 こんなことが、実《じつ》際《さい》に起《おこ》るはずがない!
 しかし——どう自分へ言い聞かせてみても、眼《がん》前《ぜん》の光《こう》景《けい》が、消《き》えてなくなるわけではないのだ。
 やっと、頭が働《はたら》き始《はじ》めた。そうだ、警《けい》察《さつ》——県《けん》警《けい》にでも、直《ちよく》接《せつ》かければいい。
 何か手を打《う》ってくれるだろう。
 依子は一《いつ》階《かい》に駆《か》け降《お》りて、電話へと走った。受《じゆ》話《わ》器《き》を上げて、ダイヤルを——。しかし、回す前に、受話器から、発《はつ》信《しん》音《おん》が全《まつた》く聞こえて来ないのに気《き》付《づ》いていた。
 電話を不《ふ》通《つう》にしてある!
 おそらく、この町の人間の中にも、私刑《 リ ン チ》などは、やりすぎだと思っている者《もの》があるだろう。その通《つう》報《ほう》を防《ふせ》ぐために、どこかで、電話線《せん》を切ったのではないか。
 依子は、改《あらた》めてゾッとした。
 一《いつ》見《けん》、突《とつ》発《ぱつ》的《てき》に見えるこの騒《さわ》ぎだが、おそらく、予《あらかじ》め考え抜《ぬ》かれ、準《じゆん》備《び》された行《こう》動《どう》なのだ!
 依子は外へ出た。——角田に率《ひき》いられた男たちは、もう道のずっと遠くへ行っている。
 どうしたらいいだろう? あの男たちの前に立ちはだかったところで、それは、手で雪崩《 な だ れ》を止めようとするようなものだ。
「先生」
 と、呼《よ》ぶ声がした。
 依子は、信《しん》じられない思いで、振《ふ》り返《かえ》った。
 目の前に立っていたのは、そこにいるはずのない人間——栗原多江だった。
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