魔女たちのたそがれ24

 23 炎《ほのお》の中に

 
「——多江さん!」
 と、依子は言った。
 その言《こと》葉《ば》が出て来るまでに、十秒《びよう》近い間があった。
 多江は、かなりひどい格《かつ》好《こう》だった。Tシャツにジーンズだが、あちこちに泥《どろ》がこびりつき、所《ところ》 々《どころ》、破《やぶ》れている。
 顔にも、いくつかすり傷《きず》があった。
「どうしたの、多江さん、どうしてここへ——」
「分らないわ」
 と、多江は首を振《ふ》った。「河村が出してくれたのよ」
「河村さんが?」
「そう。私刑《 リ ン チ》しようとして騒《さわ》いでる連《れん》中《ちゆう》がいる。守《まも》り切れる自《じ》信《しん》がないから、一《いつ》旦《たん》出してやる、って」
「そう。でも、ともかく——」
 依子は、ちょっと周《しゆう》囲《い》を見回して、「誰《だれ》かに見られたら大《たい》変《へん》よ! 行きましょう!」
「ええ」
 二人は、暗《くら》がりを選《えら》んで、小走りに駆《か》け出した。
「どこへ?」
 と、依子が訊《き》く。
「谷よ」
「でも——」
「私がいないと分ったら、あの人たち、谷を襲《おそ》うわ。早く知らせないと!」
 そう言われると、依子も反《はん》対《たい》できない。
「——そのけがは?」
「連《れん》行《こう》されるとき、抵《てい》抗《こう》したら、殴《なぐ》られたのよ」
「河村さんが?」
「他《ほか》の若《わか》い警《けい》官《かん》だったわ。髪《かみ》の毛をつかんで、引きずり回したのよ」
 依子は何も言えなかった。怒《いか》りで、胸《むな》苦《ぐる》しい。
「証《しよう》拠《こ》もないくせに!」
 と、多江は吐《は》き捨《す》てるように言った。
「でも、なぜ河村さんが、あなたを逃《に》がしたのかしら?」
「そうね」
 多江は肩《かた》をすくめて、「お役《やく》人《にん》だから、私刑《 リ ン チ》の責《せき》任《にん》を取《と》るのが怖《こわ》いのかもしれない」
 なるほど。そうかもしれない。
 役人というのは、えてして、小心だから。しかし、河村が本当に、それだけのことで、多江を逃がしたのか、依子には、今一つ、ピンと来なかった。
 河村らしくない。——腹《はら》の中で、何を考えているか、分らない男なのだ。
 ただ、多江はそんなことは、大して気に止めていない様《よう》子《す》だった。ひたすら、谷へと急《いそ》いだ。
 もし、河村が本気で、あの暴《ぼう》徒《と》を押《お》し止める気があるのなら、まだしばらくは時間が稼《かせ》げるだろう。しかし、あまり期《き》待《たい》はできない、と依子は思った。
 どちらかといえば、心《しん》情《じよう》的《てき》には河村も角田と大して変《かわ》りないはずである。
 多江がいないことを知れば、確《たし》かにあの連《れん》中《ちゆう》は、谷へ押《お》しかける。そして——何が起《おこ》るか、それは空《そら》恐《おそ》ろしい気がした。
 ——二人は山の奥《おく》へと入って行った。
 いくらか月明りはあったが、暗《くら》い道で、依子は、多江の後をついて行くのに、必《ひつ》死《し》だった。却《かえ》って、それで不《ふ》安《あん》を忘《わす》れることはできた。
 静《しず》かな山中に、多江と依子の、足《あし》音《おと》と息《いき》づかいだけが聞こえる。
 山《やま》間《あい》を辿《たど》って、あの、大沢和子が埋《う》めてある辺《あた》りへ来た。
「もう少しだわ」
 と、多江が言った。
「待《ま》って」
 と、依子が言った。
「え?」
「何だか——音《おと》がしたわ」
「音が?」
「どこかで——何かしら? 気のせいかな」
「そうね。——止って」
 多江は、じっと、耳を澄《す》ましていたが、やがて、ハッと息《いき》をつめた。
「誰《だれ》かいる!」
 強いライトが、一《いち》度《ど》に依子と多江に浴《あ》びせられた。依子は、一《いつ》瞬《しゆん》、まぶしさによろけた。
 目がくらみながら、依子は、グルリと周《しゆう》囲《い》を囲んでいる男たちの姿《すがた》を認《みと》めた。
「ちゃんと、計算通りの所《ところ》へ来てくれたね」
 ——思いがけない声——いや、当《とう》然《ぜん》の声だった。
「河村さん!」
 と、依子は言った。「あなたは、わざと——」
「もちろんですよ、先生」
 河村は、いつもと変《かわ》らぬ口《く》調《ちよう》で言った。「いくら何でも、私の目の前で、容《よう》疑《ぎ》者《しや》が私刑《 リ ン チ》を受《う》けたんじゃ、立《たち》場《ば》がありませんからね。しかし、逃《とう》亡《ぼう》した挙《あげ》句《く》、その途《と》中《ちゆう》で、となれば……」
 計算ずくだったのだ。——依子は体が震《ふる》えた。
「河村さん! あなたは警《けい》官《かん》でしょう!」
「しかし、同時にこの町の人間ですよ」
「法《ほう》を守《まも》るのが、あなたの役《やく》目《め》です」
「谷の連《れん》中《ちゆう》に、法など必《ひつ》要《よう》ありません」
 河村は冷《ひ》ややかな表《ひよう》 情《じよう》になった。
「多江さんは、人殺しなんかやってないわ!」
「それはどうでもいいことですよ」
 と、河村は言った。「要《よう》は、谷の人間たちがいなくなれば、世《よ》の中がきれいになる、ということです」
「何てことを……」
 依子は耳を疑《うたが》った。「私《わたし》が黙《だま》っていないわ! あなた方を訴《うつた》えてやる!」
「先生——」
「私《わたし》も殺《ころ》す? やってごらんなさい。私は家《か》族《ぞく》も親《しん》戚《せき》もあちこちにいるのよ。日本中回って、皆《みな》殺《ごろ》しにするつもり?」
 もう恐《きよう》怖《ふ》はどこかへ消《き》えていた。烈《はげ》しい怒《いか》りが、依子の中で燃《も》え立っている。
「先生、誤《ご》解《かい》しちゃいけません」
 と、河村は言った。「私たちは別《べつ》に人《ひと》殺《ごろ》しの集《しゆう》団《だん》じゃない。先生を殺したりする気はありませんよ」
「じゃ、どうするの?」
「その内《うち》、分って下さると思います。先生もこちら側の人間ですからね」
「私を生かしておいたら後《こう》悔《かい》するわよ」
 と、依子は河村をにらみつけた。
 河村は目をそらした。
「そんな小娘の言うことなんか放《ほ》っとけ!」
 と、角田の声が飛《と》んで来る。「みんな、ぐずぐずするな! あの連《れん》中《ちゆう》を逃《に》がすと、大《たい》変《へん》なことになるぞ!」
 男たちがワッと依子たちの方へ駆《か》け寄《よ》って来る。依子はたちまち、三、四人の男たちに手足を押《おさ》えられ、わきの方へと引きずって行かれた。
「——おい、用《よう》意《い》しろ!」
 と、角田が怒《ど》鳴《な》った。
 悪《あく》夢《む》だわ、と依子は思った。
 まるで、昔《むかし》、TVで見た西《せい》部《ぶ》劇《げき》のようだった。——木の太い枝《えだ》に、ロープが、かけられた。
 その先《せん》端《たん》が輪《わ》になって、ゆっくりと揺《ゆ》れている。——それは、無《ぶ》気《き》味《み》に単《たん》純《じゆん》な形をしていた。
 多江は、もう諦《あきら》めたのか、逆らおうともしなかった。男たちの手で、木の下へ連《つ》れて行かれると、首に輪がかけられた。
「やめて! みんな、人を殺《ころ》そうとしてるのよ!」
 依子が叫《さけ》んだ。
 多江が、依子を見た。——それは、不《ふ》思《し》議《ぎ》な視《し》線《せん》だった。
 多江は微《ほほ》笑《え》んだ。
「先生。気にしないで」
 口《く》調《ちよう》は、いつもの通りの多江だった。
 ——一《いつ》瞬《しゆん》、さすがに重《おも》苦《くる》しい雰《ふん》囲《い》気《き》がその場《ば》を支《し》配《はい》した。
「——よし。やれ」
 角田が、少し乾《かわ》いた声で言った。
 ロープがピンと伸《の》びた。
 男たちが、多江の体から離《はな》れる。
 そのとき、多江が笑《わら》いだした。——依子が、それまでに聞いたこともない凄《すご》味《み》を帯《お》びた笑いだった。
 ヒステリックな笑いではなく、何かが解《と》き放《はな》たれたような笑い声だ。
 男たちが、さすがにギョッとしたようすで、少し後ずさった。
 角田が叫《さけ》んだ。
「引け!」
 枝《えだ》に渡《わた》した、ロープの端《はし》を、四、五人の男たちが一《いつ》斉《せい》に引いた。多江の体が空中へはね上ったように思えた。
 依子は、全《ぜん》身《しん》で叫《さけ》び声を上げた。まるで、自分が吊《つる》されたような、苦《く》痛《つう》とショックに襲《おそ》われて、依子は地《じ》面《めん》に倒れた。
 
「——なるほど」
 小西は肯《うなず》いた。「恐《おそ》ろしい目に遭《あ》ったんですね」
 依子は、じっと小西を見つめた。
「でも、本当に恐ろしいことは、その後に起《おこ》ったんです」
「何ですって?」
 と小西は言った。
 そのとき、病室のドアが荒《あら》々《あら》しく開《ひら》いた。
 ベッドの上で、依子は、怯《おび》えたように身を縮《ちぢ》めた。
 小西は、驚《おどろ》いて振《ふ》り返《かえ》った。
「警《けい》視《し》!」
 入って来たのは、小西の上《じよう》司《し》に当る、県《けん》警《けい》の警視だった。赤ら顔の、太《ふと》った男である。
「おい、どうしたというんだ!」
 と、警視が怒《ど》鳴《な》るように言った。
「警視、ここは病《びよう》室《しつ》ですよ」
「分っとる」
 不《ふ》愉《ゆ》快《かい》そうに、警視は言った。「なぜ報《ほう》告《こく》せん! 犯《はん》人《にん》を逮《たい》捕《ほ》したと俺《おれ》が誰《だれ》から聞かされたと思うんだ? とんだ恥《はじ》をかいたぞ」
 小西は、車《くるま》椅《い》子《す》を上司の方へ向《む》けた。
「警視。ここは私に任《まか》せて下さい」
「なぜこの女に手《て》錠《じよう》をかけていないんだ? 病人だといっても、ベッドにつないでおくぐらいはしておくべきだ!」
 依子が、その言《こと》葉《ば》に、青ざめた。
「私《わたし》が——何をしたんですか?」
 小西は焦《あせ》って、
「警視、ともかくお話は外で——」
 と言いかけたが、止めることはできなかった。
「二人も剃《かみ》刀《そり》で殺《ころ》しておきながら、よく涼《すず》しい顔をしてられるもんだな」
 と、冷《ひ》ややかに、依子をにらむ。
 依子は、目を見《み》開《ひら》いて、じっと小西の方を見ていた。
「警《けい》部《ぶ》さん……本当ですか」
 声は震《ふる》えていた。
「ごまかされるな」
 と、警《けい》視《し》は小西に言った。「無《む》意《い》識《しき》の犯《はん》行《こう》だとか、そんなものは嘘《うそ》っぱちだ。容《よう》赦《しや》なくぶち込《こ》んでやればいいんだ! お前は女に甘《あま》すぎるぞ」
 小西はため息《いき》をついた。
 依子は、体の震《ふる》えを止めようとするかのように、両《りよう》手《て》で体をかかえ込むようにした。
「——じゃ、警部さんの、その足も——私《わたし》が?」
 小西は、少しためらったが、諦《あきら》めたように、肯《うなず》いた。依子は両手に顔を埋《う》めた。
「警視、ともかく外でお話を」
 と小西がくり返《かえ》した。
「うん。——逃《に》げないか?」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですよ」
 渋《しぶ》々《しぶ》、警《けい》視《し》が廊《ろう》下《か》へ出る。小西は車《くるま》椅《い》子《す》でそれに続《つづ》くと、ドアを閉《し》めて、
「何もかもぶち壊《こわ》しです」
 と言った。「あの女《じよ》性《せい》は、田代が行《ゆく》方《え》不《ふ》明《めい》になっている事《じ》件《けん》での、唯《ゆい》一《いつ》の手がかりなんです。その謎《なぞ》が、もう少しで解《かい》明《めい》できるところだったのに……」
「取《とり》調《しらべ》室《しつ》で訊《き》けば良《よ》かろう」
 と、警視が顔をしかめて言った。
「いいですか。彼《かの》女《じよ》の場合、実《じつ》際《さい》に犯《はん》行《こう》は無《む》意《い》識《しき》にやっているんです。それは、あの町での出《で》来《き》事《ごと》に、深《ふか》く関《かか》わってるんですよ。彼女の記《き》憶《おく》を、一つ一つ、たぐり出していたんです」
「俺《おれ》としては、殺《さつ》人《じん》犯《はん》が見《み》付《つ》かったという事実がほしいんだ。マスコミが、噂《うわさ》を聞きつけて、やかましい」
「待《ま》たせておけばいいんです」
 小西はぶっきらぼうに言った。「あの町で、何か恐《おそ》ろしいことが起《おこ》ったのです。それを証《しよう》言《げん》してくれるのは、彼《かの》女《じよ》だけなのですよ。それを警《けい》視《し》は——」
 ガラスが激《はげ》しく割《わ》れる音《おと》がした。——小西は一《いつ》瞬《しゆん》、動《うご》けなかった。
 何が起ったのか? 病《びよう》室《しつ》の中だ!
 小西は、車《くるま》椅《い》子《す》を操《あやつ》るのももどかしく、病室の中へ入って行った。顔から血《ち》の気がひいた。
 窓《まど》ガラスが砕《くだ》けている。そして、ベッドには、依子の姿《すがた》はない。
「——おい」
 と、警《けい》視《し》が言った。「どうしたんだ」
「ご自分で見れば分るでしょう」
 小西は、冷《ひ》ややかに言って、砕《くだ》けた窓の方へと、車椅子を進《すす》めて行った。
 ガラスの、尖《とが》った破《は》片《へん》のいくつかに、血《ち》がついていた。
 下を覗《のぞ》いて見る。——依子の白い寝《しん》衣《い》が、花びらのように広がっていた。
 小西は思わず目を閉《と》じていた。
 医《い》師《し》が駆《か》け込《こ》んで来た。
「警《けい》部《ぶ》さん! 患《かん》者《じや》が……」
「ええ。落《お》ちたんです。急《いそ》いで、手を尽《つ》くしてみて下さい」
「分りました!」
 あわただしい動《うご》きが、十分ほども続《つづ》いただろうか。
 廊《ろう》下《か》へ出た小西の方へ、古川医師がやって来た。
「——何をしとったんだ?」
 と、怒《おこ》ったような声で言った。
「面《めん》目《ぼく》ありません」
 と小西は言った。「どうですか」
 古川は肩《かた》をすくめた。
「神《かみ》様《さま》だって、首の骨《ほね》を折《お》った奴《やつ》は助《たす》けられん。おまけに、ガラスで動《どう》脈《みやく》を切っているんだ」
 小西は、じっと拳《こぶし》を握《にぎ》りしめた。
 警《けい》視《し》の姿《すがた》は、いつの間にやら、消《き》えていた。
「——車に乗《の》っても大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか」
 と小西が訊《き》いた。「山道を揺《ゆ》られて行くんですが」
「痛《いた》いぞ」
「構《かま》いません」
「いつだ?」
「すぐに」
「よし」
 古川は肯《うなず》いた。「包《ほう》帯《たい》をし直《なお》そう。それから、痛み止めをやる」
「お願《ねが》いします」
 と、小西は言った。
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