魔女たちのたそがれ22

 21 恐《きよう》怖《ふ》の記《き》憶《おく》

 
「——気が付《つ》いたか」
 と、言ったのは、古川医《い》師《し》だった。
 小西は、目を何《なん》度《ど》も、開《あ》けたり閉《と》じたりした。——病《びよう》院《いん》のベッドに寝ているのだ。
「参《まい》ったな。——今、何時ですか」
 と、小西は訊《き》いた。
「十一時だ。昼間のね」
 小西は、軽《かる》く頭を振《ふ》った。
「ひどいですか、傷《きず》は?」
「切り傷だからな。無《む》理《り》に動《うご》かさんことだ」
「違《ちが》います。彼《かの》女《じよ》の方ですよ」
 と、小西は苛《いら》立《だ》つような口《く》調《ちよう》で、言った。
「ああ、そうか。——向《むこ》うはもっと軽い。かすり傷だ」
「それは良《よ》かった」
 小西はホッと息《いき》をついた。
 古川は笑《わら》って、
「君《きみ》は変《かわ》ってるよ」
 と言った。「まあ一《いつ》週《しゆう》間《かん》は安《あん》静《せい》だな」
「とんでもない!」
 小西は起《お》き上って、顔をしかめた。
「そら! 傷《きず》口《ぐち》が開《ひら》くぞ。どうしても動《うご》くのなら、車《くるま》椅《い》子《す》だ」
「押《お》して下さい」
「図《ずう》々《ずう》しい奴《やつ》だ。部《ぶ》下《か》に押させろ」
「分りました。一人、呼《よ》んで下さい」
「君は、しばらく休まんといかん」
「そうはいきません。謎《なぞ》を解《と》かなくては」
 小西は、古川の方を見て、「彼《かの》女《じよ》は、憶《おぼ》えてますか」
 と訊《き》いた。
「君《きみ》を傷《きず》つけたことか? いや、まるで憶《おぼ》えとらんらしい。自分のけがの原《げん》因《いん》も、よく分らないんだ」
「それでいいんです」
 小西は肯《うなず》いた。「黙《だま》っていて下さい」
「奇《き》妙《みよう》な話だな、しかし……」
「一《いつ》種《しゆ》の催《さい》眠《みん》状態でしょう。何かのきっかけで、起《お》き出す……」
「厄《やつ》介《かい》なものだ」
「しかし、もう分ったんですから、後は彼《かの》女《じよ》を見《み》張《は》ればいいんです。すみませんが車《くるま》椅《い》子《す》を——」
「どうしても、か?」
「もちろん」
 小西は、もう、いつもの小西に戻《もど》っていた。「それから、服《ふく》の着《き》替《が》えを持って来させなくては」
 と言って、軽《かる》く息《いき》をついた。
 
 依子は、小西を見て、びっくりしたように、目を見《み》開《ひら》いた。
「どうしたんですか?」
「いや、ちょっと、ドジをやって——」
 小西は、車《くるま》椅《い》子《す》を操《あやつ》って、依子のベッドのわきへ来た。
「足を?」
「軽《かる》いけがですよ」
 と、小西は言った。
 依子は、いくらか青ざめていたが、正《せい》常《じよう》な様《よう》子《す》に戻《もど》っていた。
「でも、変《へん》ですわ」
「何がです?」
「私も、足をけがしたんです。ゆうべ、全《ぜん》然《ぜん》記《き》憶《おく》にないんですけど」
「なるほど」
 小西は微《ほほ》笑《え》んだ。「それは面《おも》白《しろ》い。私たちは、何か特《とく》別《べつ》な縁《えん》があるのかもしれませんよ!」
 依子も笑顔になった。
 本当は、小西としては、とても笑う気分ではなかったのだ。
 こうして座《すわ》っていても、傷《きず》はズキズキ痛《いた》んだし、それに、自分が人を殺《ころ》したと知ったとき、依子がどうなるか、それを考えると気が重《おも》かったのである。
「ところで、話の続《つづ》きをうかがわせて下さい」
 と、小西は言った。
「はい。——どこまで話しましたっけ」
「学校の金を使《つか》いこんだ水谷が、他《た》殺《さつ》死《し》体《たい》で発《はつ》見《けん》されたところでした」
「ああ、そうでしたわね。——あのとき、私は——」
 と言いかけて、依子はふと、「津田さんはどうしました?」
 と訊《き》いた。
「急《きゆう》用《よう》で、東京へ戻《もど》りました」
「そうですか……」
「また、すぐここへ来ると言っていましたよ」
 依子は、軽《かる》く、心《こころ》細《ぼそ》げに、肯《うなず》いた……。
 
 水谷の死《し》の後、依子は大《たい》変《へん》な忙《いそが》しさになってしまった。
 当《とう》然《ぜん》、本校から来ると思っていた教《きよう》師《し》が、都《つ》合《ごう》がつかなくて、来られなくなったのだ。
 本校へ電話して、校長に直《ちよく》接《せつ》 話をしてみたのだが、
「今は、人手がね」
 と、くり返《かえ》して、「当分、あなた一人で何とか頑《がん》張《ば》って下さい」
 というわけである。
 二人分、月《げつ》給《きゆう》をくれるわけでもないのに、と、依子は腹《はら》が立った。
 しかし、子《こ》供《ども》たちは毎日学校へやって来るのだ。それを放《ほう》り出しておくわけにもいかない。
 依子は、必《ひつ》死《し》でやりくりして、授《じゆ》業《ぎよう》を午前と午後に分け、何とかこなすようにした。
 もちろん、事《じ》件《けん》のことも気になるが、やはり、まず教師としての、任《にん》務《む》を果《はた》さなくてはならない。
 一《いつ》週《しゆう》間《かん》が、たちまち過《す》ぎて行った。
 田代刑《けい》事《じ》のこと、多江のことなど、時々、心《しん》配《ぱい》にはなったのだが、一日は二十四時間しかなく、しかも、眠《ねむ》る時間と食《しよく》事《じ》の時間以《い》外《がい》は、ほとんど働《はたら》きづめだった。
 これでは、どうすることもできない。
 やっと土曜日が来て——それでも、午後まで授《じゆ》業《ぎよう》をしたので、一《ひと》息《いき》ついたのは、もう夕方だった。
 職《しよく》員《いん》室《しつ》で寛《くつろ》いでいると、河村が顔を出した。
「先生、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか?」
 と、やって来る。
「河村さん」
「先生が倒《たお》れちまうんじゃないかと、みんな心配してますよ」
「ありがとうございます。でも、これくらいのことでは、へこたれませんわ」
 と、依子は言った。
「いや、大したもんですな」
 と、河村は笑《わら》って、「警《けい》官《かん》になったら、先生はきっと今ごろ警《けい》部《ぶ》さんだ」
「そういえば——」
 と、依子は言った。「水谷先生を殺《ころ》した犯《はん》人《にん》の方は?」
「ええ、実《じつ》は昨日《 き の う》、県《けん》警《けい》の方とも話をしたんですがね」
 と河村は言った。「ちょっと、怪《あや》しいのがいるんです」
「まあ」
「先生、いつか町へ行くバスで一《いつ》緒《しよ》だった娘《むすめ》がいたでしょう」
「娘……」
「栗原多江という娘です」
 依子は、動《どう》揺《よう》を悟《さと》られないように、苦《く》労《ろう》した。
「そんな名前でしたね」
「どうもあの娘が怪しいということでしてね……」
「まさか」
 と、つい、依子は言っていた。「だって——あんな殺《ころ》し方、女の子にできると思われますか?」
「分りません」
 と、河村は肩《かた》をすくめた。「しかし、不《ふ》可《か》能《のう》ではありませんよ。鋭《するど》い刃《は》物《もの》ならね」
「何か理《り》由《ゆう》が?——動《どう》機《き》があるんでしょうか」
「あの娘《むすめ》は、この学校に、恨《うら》みを持《も》っているんですよ。教《きよう》師《し》にも、当《とう》然《ぜん》ね」
「でも、殺すなんて……」
「何とも言えませんな」
 河村は首を振《ふ》った。「ともかく、一《いち》応《おう》、あの娘に目をつけているようです」
 多江に。——多江に水谷殺しの容《よう》疑《ぎ》がかかっている!
 もちろん、依子は信《しん》じなかった。
 多江が、そんなことをやる理由はない。
 しかし、河村の話で、県警が、彼《かの》女《じよ》を取《と》り調《しら》べることは、充《じゆう》分《ぶん》に考えられる。
 そうなったら、多江は、無《む》理《り》に、犯《はん》人《にん》にされてしまうかもしれない。
 多江は知っているのだろうか?
「——先生も、明日はゆっくりと休まれた方がいいですよ」
 と河村は言って、「では、これで」
 と、丁《てい》寧《ねい》に頭を下げ、出て行った。
 ——何をしに来たのだろう?
 依子は首をかしげた。
 多江が、疑《うたが》われていることを、なぜわざわざ、依子に知らせたのか?
 依子は時計を見た。——これから、多江の働《はたら》く店まで行く時間はあるだろうか?
 放《ほう》っておくわけにはいかない。
 依子は急《いそ》いで、机《つくえ》の上を片《かた》付《づ》けた。
 学校を出る依子を、ずっと遅《おく》れてつけている人《ひと》影《かげ》があった……。
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