眠りを殺した少女03

 3 追 悼

 
 すすり泣きの声が、あちこちで上った。
 
 講堂には、合唱部の歌う〈アヴェ・マリア〉が流れている。
 
 正面の壇上には、片倉道雄の大きな顔写真が花に囲まれて、微《ほほ》笑《え》んでいた。——学校葬。
 
 四十になったばかりの教授がこんな扱いを受けるのは珍しい。
 
 そう。——マスコミ向けなのよね。
 
 智子は講堂の椅子に腰をおろして、じっと身じろぎもせずに座りながら、考えていた。
 
 片倉は、三十七歳の若さで教授になった。
 
 それには、もちろん当人の学問上の業績(片倉は心理学の教授だった)もあったが、TVや雑誌によく登場し、マスコミに顔が売れているということも、プラスになったに違いない。
 
 私立校としては、学生集めのための〈スター〉を必要としているのだ。
 
 四十歳で独身。一人住まいの片倉には、当然の如く、女子学生との噂《うわさ》も立った。
 
 しかし、どれも結局は噂に過ぎず、むしろ顔が知られすぎてしまった片倉は、「真面目人間」でいる他はなかったのだろう。
 
 ——智子は、花に囲まれた片倉の笑顔を、じっと見返した。
 
 あの顔……。あのやさしい顔が、あのときには悪魔のように笑ったのだ。
 
「このような、憎むべき犯罪を、決して許すことはできません!」
 
 学長の挨《あい》拶《さつ》は、いささか芝居がかって、智子を白《しら》けさせたが、多くの女の子たちは、それを聞いてすすり泣いていた。姉の聡子も、たぶん泣いていただろう。
 
「必ずや犯人が逮捕されるものと信じます」
 
 学長はそう言った。
 
 ——智子は、立ち上って叫んでやろうかと思った。
 
「先生! 犯人ならここにいますよ!」
 
 と……。
 
 もちろん、そんなことはしない。馬鹿げている。
 
 ——片倉の死から、十日たっていた。
 
 一時、新聞やTVもこの事件を追いかけて、大騒ぎだった。
 
 物盗りの犯行ではない。何者かの個人的な恨《うら》みによる犯行、とTVは伝えた。
 
 智子は、大分落ちついて来ていた。——事件直後よりも、却って三日ほどたってから、恐ろしくなったのだ。
 
 家にいても、チャイムが鳴ると、刑事が逮捕に来たのかと飛び上り、電話が鳴ると、出頭を求める呼出しかと身を固くした。
 
 何といっても、智子はあらゆるところに手がかりを残している。片倉の部屋で、コーヒーも飲んだ。カップはそのままにして来たから、当然血液型や指紋が、そこから出ているはずだ。
 
 それに、片倉と二人であのマンションへ入るところを、ピザの宅配の男の子に見られている。加えて、大理石の灰皿にははっきりと智子の指紋が残っているはずだし、マンションから飛び出して行くところを、誰か——一人や二人は見た人もいるだろう。
 
 そしてタクシーの運転手。
 
 あの時刻に、雨に濡れた妙な女の子が乗って来たこと。えらく遠くまで乗って帰ったこと……。
 
 あの運転手は、きっと怪《あや》しいと思うだろう。そして警察へ届け出る。
 
「その子をどこで降ろした?」
 
 と訊かれる。
 
 あの辺で、N女子学園へ通っている子がいるか?——いる! 小西智子だ。
 
 智子の写真を、運転手へ見せる。
 
「あんたが乗せたのは、この子だったかね?」
 
 運転手は、しっかり肯《うなず》いて、
 
「間違いありません。つり銭はいらない、って言ったんで、そんなことは大人の言うことだって言ってやったんです。ちゃんと憶えてます」
 
 これで決りだ。——外へ出た智子に左右からすっと男たちが寄って来て、腕をつかむ。
 
「小西智子だな」
 
「そうですけど……」
 
 智子はもう震えて青ざめている。
 
「片倉道雄を殺したな」
 
「私……」
 
「証拠は上ってるんだ! 素直に白状しろ!」
 
 怒鳴られて、智子は泣き出す。そして手首には冷たい手錠がかけられるのだ。
 
 しかし——現実には、そんなことは一向に起らなかったのである。
 
 起ってほしかったわけでは、もちろんない。しかし意外なほど、警察の捜査は「難航している」のだった。
 
 考えてみれば、当然のことかもしれない。
 
 指紋を残したといっても、もともと智子の指紋が警察に登録してあるわけではない。雨の中、時間内にピザを届けようと焦《あせ》っている若者が、いちいちすれ違った人間の顔を憶えているものか。
 
 降りしきる雨の中へ駆け出した智子を見ている人間がいたとしたら、よほどの偶然か物好きだろう。雪景色ならともかく、雨が降るのを眺めていても、面白くもなんともない……。
 
 あのタクシーの運転手にしても、「女子高校生らしい女の子」が手配されているわけでもなく、あれだけマンションから離れた場所で乗せているのだ。——事件と結びつけて考える理由は何もない。
 
 そう思い付くと、智子の恐怖は春になって消えて行く雪のように、消え去ってしまった。
 
「——〈疫《やく》病《びよう》神《がみ》〉が来てる」
 
 と、隣に座った子がそっと囁《ささや》いたので、智子はふっと我に返った。
 
「何?」
 
「ほら、山神よ」
 
 山神完一。——片倉と同じ、N女子大学の助教授である。
 
「疫病神」というのは、山神のあだ名だ。
 
 学生の生活指導担当で、山神のせいで(当人たちのせい、という点は別にして)、退学、停学の処分を受けた学生は、数多い。
 
 当然の如く、学生たちには嫌われている。
 
 山神当人も、至って陰気な、
 
「何を楽しみに生きてるのか分らない」
 
「笑うことがあるのかしら」
 
 と言われるタイプ。
 
 やせて、色白で、特に今日は黒の背広とネクタイなので、一層、「疫病神」の名がぴったりである。
 
「内心喜んでるよ」
 
 と、低い声で話しているのが、智子の耳に入った。
 
 そう。——智子も知っていた。
 
 山神は、片倉と同じ心理学の講義を受け持っている。そして片倉より五つも年上なのに、結局、教授のポストでは、片倉に先を越されてしまったのだ。
 
 その後、山神が、食堂などで顔を合せても片倉に挨拶もしない、という話は、N学園中に知れわたっている。
 
「これで山神先生、教授だものね」
 
 と、誰かが言った声が少し大きすぎたのかもしれない。
 
 山神が、チラッと振り向いた。——その視線は、なぜか智子の上に止った。
 
 私じゃありませんよ! 智子はそう言いたかったが、まさかそんなわけにもいかず無視していた。
 
 ところが——奇妙なことに、しばらくして山神の方へ目をやると、山神の視線はまだ智子の上に止っていたのだ。
 
 智子はムッとして、じっと山神をにらみ返してやる。すると山神は、唇の端に薄く笑いを浮かべて——錯覚ではなかった——ゆっくりと視線を前の方へ戻した。
 
 何だろう、あれは?
 
 智子は不思議な気持で、その後もチラチラと「疫病神」へ目をやっていた……。
 
 
 
「あーあ」
 
 聡子は、家へ帰ると、黒のスーツのまま居間のソファに引っくり返った。
 
「何してんの」
 
 と、智子は言った。
 
「悲しみに沈んでんのよ」
 
「その格好で? 説得力ないよ」
 
 と智子は言った。「着がえくらい、したら?」
 
「お帰りなさい」
 
 と、やす子がドアを開ける。「お浄めの塩は?」
 
「告別式ってわけじゃないんだから」
 
 と、智子は言った。「お母さん、どこかに出かけた?」
 
「もちろん」
 
 と、やす子はあっさり言った。「何かお食べになりますか?」
 
「まだいいわ。夕ご飯を少し早めにして」
 
 と、智子は言って、二階へ上ろうとした。
 
 門のインタホンを誰かが押した。
 
 やす子が駆けて行く。——誰だろう?
 
 智子は、階段を二、三段上りかけて、足を止めていた。
 
 やす子が戻って来た。
 
「誰?」
 
 と、智子が訊《き》くと、
 
「小野様とおっしゃる方です」
 
「小野?」
 
「聡子さんのお友だちとか」
 
「由布子?」
 
 と、聡子が出て来て言った。「何だろう? 入れて上げて」
 
「はい」
 
 駆けて行くやす子へ、
 
「着がえてくるから、居間で待たせてね」
 
 と、聡子は呼びかけた。
 
「——小野由布子って、あの?」
 
「そう。一緒に片倉先生の所へ行った子よ」
 
 と、聡子は智子を追い抜いて二階へと上っていく。
 
 智子も、興味があった。——小野由布子が何の用事でやって来たのか。
 
 話に加わろう、と智子は思った。
 
 
 
「家へ帰ってないの?」
 
 居間へ入った聡子は、小野由布子が、黒いワンピースのままなのを見て、言った。
 
「ええ」
 
 と、由布子はいつもの無表情で肯《うなず》くと、「妹さんね。智子さんだった?」
 
「こんにちは」
 
「智子。あなた部屋に行っててよ」
 
「構わないわよ」
 
 と、由布子は止めた。「仲間は多いほどいいわ」
 
「仲間?」
 
「座って」
 
 と、由布子は言った。「私ね、片倉先生を殺した犯人を知ってるの」
 
 聡子と智子は、言葉もなく、ソファに腰をおろした。
 
「何て言ったの、由布子?」
 
「犯人を知ってる、って言ったのよ」
 
「誰なの?」
 
「動機が問題でしょ。殺すだけの理由のある人。——片倉先生はみんなに好かれていた。動機のある人は少ないわ」
 
 智子は黙っていた。
 
 みんなに好かれていた……。そう。誰もがあの先生の〈仮の顔〉を愛していた。
 
「動機って……」
 
「あの先生のおかげで教授になれず、恨《うら》んでた人よ」
 
「山神先生?」
 
「そう。〈疫病神〉よ。他には考えられない」
 
「でも——」
 
「もちろん、証拠は必要よ。アリバイも当らなくちゃね。でも、殺人犯は頭が良くはない。必ずボロが出るわ」
 
「待ってよ、由布子。何をしようっていうの?」
 
「山神先生が犯人だってことを、立証したいの。力を貸してくれる?」
 
 由布子は、いつになく力強く、顔を紅潮させて、そう言った。
 
 ——智子は、もちろん何も言えない。
 
「お待たせして」
 
 やす子が紅茶をのせた盆を手に、入って来た。
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