クリスマス・イヴ06

 6 心変わり

 
「おい」
 開け放したドアから顔を覗《のぞ》かせて、水島は声をかけた。
 原は、机の前で何やらじっと眺めていたが、ドキッとした様子で振り向いた。
「何だ?」
「何だ、じゃないよ。呼んだのはそっちだろう」
 と、水島は言った。
「ああ。そうだった」
 原は、手紙らしいものを、手の中で握り潰《つぶ》し、屑《くず》かごへ捨てた。
 劇団のオフィスである。原は、ちょっと咳《せき》払いして、
「公演の本読みのスケジュールなんだが、大丈夫かと思ってな」
「俺かい? 別に予定はないぜ」
 と、水島は言った。
「それならいいんだ。念のために確かめたくて」
 原は曖《あい》昧《まい》に笑った。
「ふーん……」
 何となく妙だ、と水島は思った。原は、余計な口をきかないタイプである。
 それに、水島のスケジュールなら、原は当人以上によくつかんでいる。
「何かあったのか」
 と、水島は訊《き》いた。
「いや、別に」
「そうか。——ホテルSの方だけど、リハーサルはあるのか」
「一応前日の午後だ。ホテルが一番暇になる二時から四時の間にやるってことだ」
「分った。また教えてくれ」
「ああ、ちゃんと連絡する」
 原は立ち上って、「帰るか。——お前、どうする?」
「帰るよ」
 水島はオフィスを出ようとして、「そうだ、エリが捜してたぞ」
「俺を?」
「うん。さっき、いなかったろ」
「出かけてたんだ。何の用かな」
「さあ。まだいるかもしれないぜ」
「そうか」
 原はオフィスを出て行った。
 永田エリが原を捜していたのは事実である。しかし、エリはもう引き上げてしまっていた。
 水島は、原が歩いて行く、重そうな後ろ姿を見送って、それから、さっき原が何かを捨てた屑かごを覗き込んだ。
 くしゃくしゃにされた封筒。——手紙。いや、便せんは白紙で、写真が一枚、中に挟んであった。
 もちろん、写真もくしゃくしゃになっている。水島は少しためらったが、写真をのばしてみた。
 どうも、さっきの原の態度が、いつもの原らしくないのだ。何かを隠しているかのように見えた。
 写真は——水島の顔を青ざめさせるに充分だった。
 久仁子だ。それもつい最近。ヘアスタイルで分る。
 一人ではなかった。男と二人でホテルから出て来るところ。間違いない。
 久仁子は、少しうつむき加減で、寒そうに見える。そして男の方は——。
 ピントが少し甘い写真だったが、よく知っている顔を見間違えるほどではなかった。何とも堂々としている。
「少しは遠慮しろ」
 と、水島は言ってやった。
 川北の奴《やつ》……。いつの間に、久仁子に手を出したのか。
 水島は、原の戻って来る足音で、写真をすばやくポケットの中へ入れた。そして封筒を元のように握り潰して、屑かごへ放り込んでやった。
「——もういないよ」
 と、原は戻って来て、言った。「どうだ、帰りに一杯やるか」
「いや、やめとく。今日は家で晩飯を食べると言ってあるんだ」
「そうか。それはいいことだ」
「娘に忘れられたくないからな。たまにゃ顔を見せとかないと」
 水島は笑って、「じゃ、明日、また」
「ああ」
 先に外へ出て、歩き出す。
 もちろん、もう夜になっていた。このところ、日が短い。
 歩き出し、歩きながら、水島の内に、怒りが燃えて来た。我知らず、足どりが速くなる。
 川北が……。久仁子を抱いている。あいつめ!
 不思議と、久仁子への怒りは湧《わ》いて来なかった。まだ、現実味がないのだろうか。
 水島は、川北への怒りを、ともかくぎりぎりまで燃え立たそうとした。その時期が過ぎたら、怒りは少しおさまって来るだろう。
 これまでの人生から得た、知恵である。
 とことん行けば、後は冷えるだけ。
 しかしクリスマス・イヴのイベントで、他ならぬ川北と顔を合せることを考えると、気は重かった。
 足を止め、街灯の明りの下で、もう一度写真を見る。
 初めて、自分の受けたショックの大きさを知った。足下の大地が崩れて行くような、無力感と、恐怖と、そして惨めさだった。
 帰って、どうしよう? いきなり久仁子を殴りつけずにすむだろうか。牧子の前では、罵《ののし》り合うようなことをしたくない。
 しかし、何くわぬ顔で、「ただいま」と言えるだろうか……。
 そのとき、水島はやっと考えたのだった。
 原のところへこれを送って来たのは、誰だったんだろう、と。
 
 五月麻美のマンションのロビーに入って行ったとき、村松はくたびれ果てていた。
 今日は別に走って来たわけではなかった。タクシーでここまで来る間、少し眠っていたのだし。——要は気分的に参っていたのである。
 特にこれから麻美と話さなければいけないことを考えると……。つい、インタホンのボタンを押す手も、ためらいがちになるのだった。
「——はあい」
 眠そうな声で、麻美が出て来た。
「村松です」
「あら。入って」
 何だ? 忘れてたのかな。今日来るってことを。
 まあいい。——インターロックがカチッと音をたてて外れ、村松が扉を開けて中へ入る。
 エレベーターで五階へ。
 ——次のドラマのスケジュールが、大幅に変更になった。それを麻美に伝えなければならない。
 麻美が怒るのは分り切っていた。しかし、仕方がないのだ。ドラマの目玉は今、人気が急上昇しているアイドルで、麻美ではない。
 そのアイドルのスケジュールに合せて、収録の予定が組まれることになってしまうのである。
 麻美も、もう主役というより、主役の子の「お母さん」が合う年代に入っているのだ。しかし、当人はそう思っていない。
 納得するまでにひと悶《もん》着《ちやく》あるだろうな、と村松は覚悟していた。
 ——ドアが開いて、ガウンをはおった麻美が顔を出す。
「どうしたの?」
「いや……。打合せがすんだんで、回って来たんです。そういうことにしてありましたよ」
 麻美は、ちょっと不思議な目で村松を見ていたが、黙って奥へ入って行く。村松は、玄関に川北の靴がないことに気付いていた。
「——寝てたんですか」
 と、居間へ入って、アルコールの匂《にお》いに顔をしかめる。
「オフですものね。——ね、あんた、会社へ寄って来なかったの?」
「ええ。アパートから直接局へ行ったんで……。何かあったんですか」
 村松はアタッシェケースを開けながら、言った。
「うん……。社長とね、話をしたの」
「何です? 正月休みですか」
 村松は、笑顔を作って、「映画がずれ込むと思いますけどね」
「あんたのことよ。あんた、クビよ」
 ——麻美はタバコに火を点《つ》けて、ソファにゆったりと寛《くつろ》いだ。ガウンの前が割れて、形のいい足がむき出しになる。
「何ですって?」
 村松は、まだ笑っていた。
「川北とうまく行ってないって、どこかの記者にしゃべったでしょ。出てたわよ、スポーツ紙に。マネージャーM氏の話、ってね」
「しかし……。そんなこと言いませんよ!」
「じゃ、どうして出てるわけ?」
 分り切っている。川北と麻美がうまく行っていないことぐらい、関係者は誰でも知っているのだ。
 何しろ当の麻美がTV局で騒ぎを起こしたりしているのだから。しかし——村松としてはそうは言えない。
「分ったでしょ。そんなこと、ベラベラしゃべられちゃ、やってらんないわ。社長も怒ってたわよ。マネージャー失格だって。クビになるか、事務にでも回されるか、知らないけど、明日から別の人にするって。分ったら帰って」
 麻美はアッサリと言った。
 村松は、それが冗談でも何でもないのだと知って、青ざめた。
「——今ごろ青くなっても遅いわよ」
 と、麻美は愉快そうに、「売れないアイドルの担当にでもなるのね。頑張って」
 灰皿へギュッとタバコをひねり潰《つぶ》す。村松みたいな男一人、ひねり潰すのは簡単なことなのだ。あのタバコと同じだ。
「じゃ、私、また寝るから」
 麻美が立ち上る。——歩いて行く麻美を見ていて……村松の中で、何かが音を立てて切れた。
「何よ!」
 いきなり腕をつかまれて、麻美は声を上げた。「何のつもり! 放しなさいよ!」
「黙れ!」
 村松は怒鳴った。「あんたの気《き》紛《まぐ》れにここまで付合って来たんだ。クビ? ああ、結構だ。その代り、こっちが苦労した分、あんたから返してもらう」
「何よ、その口のきき方!」
 麻美の平手が村松の頬《ほお》に音をたてた。
 村松は、もう抑えがきかなくなっていた。
 麻美を突きとばし、声を上げてソファに倒れるのを見ると、飛びかかった。
 助けを求める声は上らなかった。二人とも無言で、激しくもみ合った。呻《うめ》き声、荒々しい息づかい。布の裂ける音。テーブルがけられて、引っくり返り、アタッシェケースの書類が床に飛び散った。
 そして二人は、もつれ合うようにして、床のカーペットの上に転がり落ちた。
 ——そして、時間がたった。
 どれくらい? 村松にはよく分らなかった。
 一時間か、二時間か。
 いや、ほんの十分くらいのものだったのか。それとも一晩たったのか……。
 サイレンが聞こえて、村松は我に返ったのだ。——サイレン。パトカーだ。
 俺《おれ》を捕まえに来たのか。きっとそうだ。麻美が一一〇番して……。
 しかし——そんなわけはなかった。今、麻美は村松の下に組み敷かれていて……。
 麻美の手がのびて来て、村松の髪をかき上げた。
「あんたも男だったのね」
 麻美が笑った。
 そう。俺は……。五月麻美を自分のものにしたのだ。
 何てことだ……。
「いいのよ」
 と、麻美は言った。「すてきだったわ」
 村松は、麻美の胸に顔を埋めた。スターが吐息を洩《も》らす。信じられないようなことが起こってしまった。
「ね……」
 麻美は、ゆっくりと体を起こして、「お腹空いたわ。何か食べに行きましょ」
 村松は、戸惑って、麻美を見ていた。
「——どうしたの? どこか予約して。いいお店を。あんた、私のマネージャーでしょ」
 村松は、あわてて起き上った。
「分りました。どこにします?」
「任せるわ。あなたのいい所で」
 五月麻美は立ち上って、ガウンをひっかけると、「シャワー浴びて来る。あなたも後で浴びなさいよ」
「ええ……」
「その間に社長へ電話しとくから。やっぱりマネージャーはあんたでなきゃだめだ、ってね」
 麻美が居間を出て行く。
 村松は、しばし呆《ぼう》然《ぜん》と座り込んでいたが、やがて、手帳を取り出して、近くのレストランを捜し始めた……。
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