くちづけ22

 見舞客

 
 
 
「お義《と》父《う》さん」
 
 陽子が声をかけると、金倉茂也はうっすらと目を開けた。
 
「——陽子さんか」
 
「いかがですか?」
 
 と、陽子は椅《い》子《す》を少しベッドに近付けて、訊《き》いた。「お弁当です。——塩分は控えめにしたので、薄味ですわ」
 
「旨《うま》くないな、薄味なのは」
 
 と、茂也は言って、「ぜいたく言っちゃいかんな。わざわざ作って来てくれたのに」
 
「そんな……」
 
 陽子は、茂也がずいぶん穏やかな人柄になってしまったようで、少し寂しい気がしていた。
 
 いつも頑固で、手を焼くこともあったのだが、いざもの分りがよくなると、心配してしまう。
 
「藤川さんは……」
 
「ああ、あいつはちょっと家へ帰ってるよ」
 
「そうですか。ずっとあの方に任せきりで、申しわけないみたい」
 
 陽子は、弁当を小さなテーブルに置くと、「リンゴでもむきましょうか」
 
「ああ……。頼もうか」
 
「はい」
 
 陽子は立ち上って、「ちょっと、手を洗って来ます」
 
 と、ベッドから離れた。
 
 すぐに戻ってリンゴの皮をむき始める。
 
 茂也は、じっとその陽子の手を見ていたが、
 
「——正巳の奴《やつ》、さっぱり来んな」
 
 と言った。
 
「忙しいようで。それに、男の人には結構、病院って怖いらしいですよ」
 
 と、陽子は笑った。
 
「陽子さん。——あの藤川ゆかりのことをどう思う」
 
「どうって……。お義父さんの方がご存知でしょ」
 
「うん……。しかし、こう寝込んじまっちゃな。よくそばにいてくれるよ」
 
「——どのくらいのお付合いなんですか?」
 
 と、陽子は訊いた。
 
 考えてみれば、藤川ゆかりについて詳しいことを訊くのは初めてである。
 
「一年ほどかな」
 
 と、茂也は言った。「初めはどうってことじゃなかったんだ。本当だよ。それがある時から。——あいつなしじゃいられなくなり、大切な女だと思えるようになった」
 
「そうですか」
 
「分るかね」
 
 分る。——そう答えかけて、ためらう。
 
 円城寺のことが心にあった。それを知られそうな気がして怖かった。病人の直感は鋭い、と聞いていたからである。
 
 陽子が返事をためらっているのを見て、金倉茂也は、
 
「みんなが私のことを心配してくれているのは、よく分ってるよ」
 
 と、小さく肯《うなず》いた。「や、ありがとう」
 
 陽子のむいたリンゴをかじりながら、茂也はホッと息をついた。
 
「旨い。——冷えたリンゴか。こんなものを旨いと思うなんてな。人間ってのは変るもんだ」
 
「そうですね」
 
「私には、みんなの心配する気持も分るつもりだよ。しかし、私を騙《だま》したところでゆかりには何の意味もない。一文の得にもならん。そうだろ?」
 
 茂也は微《ほほ》笑《え》んで、「大した貯金があるわけでもないし、家や土地だって私のものじゃない。——確かにいくらかは私も金を出したが、土地にしたって、狙《ねら》われるほどのもんじゃない」
 
「そんなこと考えていませんわ」
 
 と、陽子は言った。「本当です。——少なくとも、私は藤川さんが損得でお義父さんのことをお世話されているとは思っていません」
 
「本当にそう言ってくれるのかね」
 
 茂也は、じっと陽子を見つめた。
 
「ええ。——アパートを借りたいとおっしゃったときは、ふくれっつらをしたと思いますけど、許してください。まさかこんなこととは思わなかったんですもの」
 
「いや、そう言ってくれると……。却《かえ》ってこっちが照れるよ」
 
 と笑いつつ、茂也は嬉《うれ》しそうだった。
 
「お義父さんも、初めからそうおっしゃれば良かったんです。好きな女性ができた、って」
 
「七十五にもなって? そう無理を言わんでくれ」
 
「再婚——なさるんですか」
 
「さあ……。生きて退院できりゃの話だが」
 
「何をおっしゃってるんですか!」
 
 陽子は、ちょっと叱《しか》るように言って、それから笑った。「ぜひ若返って下さいな。あの方、おいくつ?」
 
「今……確か四十だ」
 
「まあ! 私より二つも若い『お義《か》母《あ》さん』ですね」
 
「いや、まあ……。まだ、プロポーズといっても……。何となく二人でそう思ってるだけなんだ。いや、もしかしたら、あっちはそんなこと、思ってもいないかもしれん」
 
「まさか! こんなに親身になって面倒みませんわ。そのつもりがなければ」
 
「うん……。ま、たぶんね」
 
 照れている茂也は、初めて見る顔だった。
 
 陽子は、頑固な茂也を嫌いじゃなかったが、この「新しい茂也」もすてきだと思った。
 
 茂也は、すっかり気が楽になったのか、陽子に藤川ゆかりのことをあれこれ話し始めた。
 
 陽子は、義父の話に耳を傾けながら、自分の沈んだ心が少しずつ明るく、おもしを取り除かれるように軽くなってくるのを感じていた。
 
 病室のドアが開いて、
 
「——あら」
 
 当の藤川ゆかりが、大きな紙袋を抱えて入って来る。
 
「お義《と》父《う》さん、お待ちかねの方がみえましたから、私、失礼しますわ」
 
 と、陽子は立ち上った。「お弁当を置いて行きます。よろしく」
 
「わざわざどうも」
 
 と、ゆかりは深々と頭を下げ、「正巳さんはおみえになりませんか」
 
「主人ですか? 今、忙しいようで。——何か主人に伝えることでもありますか?」
 
「いえ、そういうわけでは——」
 
「入院費のことでしたら、私がやっておきますわ」
 
「ありがとうございます。まだ今月の分は来ていません。来ましたら、すぐご連絡します」
 
「よろしく。——じゃ、お義父さん」
 
 陽子は会釈して、病室を出て行った。
 
 ——ゆかりは、
 
「リンゴをむいてもらったんですか? 手のかかること」
 
 と、微笑んで言った。「——パジャマの新しいのを買ってきましたよ」
 
「何だ。どうせすぐしわくちゃになる。もったいない」
 
 と、茂也は顔をしかめた。
 
「そういうものじゃありません。人は、身なりをきちんとしておくと、気持まで変ってしまうものなんです。人に見せて恥ずかしくない格好をするっていうのは、病気のときだからこそ、大切なんですよ」
 
「そうかな……。ま、お前に言われると、どうせいやとは言えんのだから」
 
「そうですよ」
 
 と、ゆかりはパジャマの包みを開けて、「ちょっと体を拭《ふ》きましょうね。熱いタオルで。——待ってて下さい」
 
 ゆかりは立って、大きめのタオルをつかむと病室を出た。
 
 給湯室へ行き、洗面器に熱いお湯を入れると、少し水でうめて、タオルを浸した。
 
「熱すぎるかしら……」
 
 と、指で具合をみていると、
 
「ちょっと……」
 
 と、背後で声がした。
 
「足音が大きいわよ」
 
 と、ゆかりは言った。「病院の中だからね、静かにお歩き」
 
 別人のように、厳しい口調だった。
 
「すんません」
 
 大柄なその男は、ゆかりに叱られると、首をすぼめた。
 
 いくら小さくなっても、大きい体そのものまでは変らないので、見ているとどこかユーモラスである。
 
 藤川ゆかりは、タオルをキュッと絞って、
 
「ちょっと待っといで。じき戻るから」
 
 と、その男に言った。
 
「はい」
 
 男が廊下の隅へ退《さ》がって行く。
 
 ゆかりは濡《ぬ》れタオルを手に、急いで病室へと入った。
 
「——さ、脱いで下さい。体を拭きますから」
 
 と、茂也に言って、「早く早く、タオルが熱い内に」
 
 と、せかせた。
 
「うむ……」
 
 茂也は、渋々という様子で起き上った。
 
 ゆかりも手伝うが、できるだけ一人で脱げるようにする。それが茂也のためでもあるのだ。
 
 ゆかりは手ぎわよく茂也の体を拭いて、新しい下着をつけさせる。——ほとんどプロの手つきで、茂也はされる通りにするだけだった。
 
「さ、パジャマ」
 
 と、ゆかりが包みから出したパジャマを着せる。
 
「うん、さらさらして気持がいい」
 
「でしょ? 少し面倒でも、こういうことはまめにした方がいいんです」
 
 ゆかりは、茂也を寝かせると、「じゃ、今脱いだもの、洗濯して来ちゃいますからね。すぐ、戻ります」
 
「ああ。——ゆかり。お茶をひと口くれ」
 
「はいはい」
 
 少し冷したウーロン茶を飲ませ、ゆかりは病室を出た。
 
 チラッと廊下を見渡す。
 
 看護婦の姿も近くにはなかった。
 
 ゆかりが近付いて行くと、大柄な背広姿の男は真《まつ》直《す》ぐに背筋を伸ばして、
 
「ごぶさたしております」
 
 と、頭を下げた。「奥様もお変りなく——」
 
「挨《あい》拶《さつ》はいいよ。それに今は誰の『奥様』でもないしね」
 
 ゆかりは男を促して、廊下の一隅のベンチに連れて行った。
 
「達者かい?」
 
「はい、おかげさんで」
 
「私のおかげってことはないけどね」
 
 と、ゆかりは笑った。「——タバコはやめな。病院の中じゃ禁煙だ」
 
「は、すんません」
 
 男は、取り出しかけたタバコをあわててポケットへ戻した。
 
「それで、何か分ったかい」
 
 ゆかりは、男のような口をきいた。
 
「どうも、あまりいい話は入って来ません」
 
 男は手帳を取り出して開いた。「金倉さんのお宅ですが、土地も家も担保に入っています」
 
「何だって?」
 
「浅香八重子、ご存知ですか」
 
 ゆかりは顔をしかめた。
 
「当り前だよ。あの、人の血を吸って生きてる、ヤブ蚊みたいな女、忘れたくても忘れられないさ」
 
「その浅香八重子が絡んでるんですよ」
 
 男はニヤリと笑って、「今の身分は〈C生命〉の外交。つまり〈保険のおばさん〉ですな」
 
「何の保険だか」
 
 と、ゆかりは苦笑した。「じゃ——あの正巳さんが借りてるの?」
 
「そのようです。もう少し調べると、もっと詳しいことが……」
 
「調べておくれ」
 
「はい」
 
「悪いね、あんたをこき使って」
 
「とんでもない! 奥様のためなら、何だってやります。おっしゃって下さい」
 
「——あの女がかんでるとなると、もっと荒っぽい手が必要かもしれないね」
 
「いつでも人手は集めます」
 
「出入りじゃないよ。でも、それくらいの覚悟は必要かもしれないね」
 
「しかし——」
 
 と、男は初めてためらい、「あの金倉って年寄りと暮すおつもりですか」
 
 ゆかりはチラッと男を見て、
 
「不服かい?」
 
「いえ、とんでもねえ! ただ——あの方は奥様のことを——」
 
「普通の未亡人だと思ってるわよ」
 
 ゆかりは立ち上って、「あんまり遅くなると気にするからね」
 
「じゃ、また参りますんで」
 
「——江《え》田《だ》、あんたは頼りになるね」
 
「そうおっしゃられると照れます」
 
 ゆかりは笑ってポンと男の肩を叩《たた》き、足早に歩き出した。
 
 ——コインランドリーで、茂也の下着やパジャマを洗う。
 
 三十分やそこいらはかかるので、一《いつ》旦《たん》病室へと戻って行くと、
 
「腹が減ったな」
 
 と、茂也が言った。
 
「じゃあ、陽子さんの持って来て下さったお弁当を食べますか?」
 
 ゆかりは打って変って、やさしい声になった。「いいお嫁さんがいて、幸せですね」
 
 そばの椅《い》子《す》にかけると、ゆかりは、茂也に楽しげに食べさせてやるのだった。
 
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