アンバランスな放課後17

17 ある疑惑

 
「あら」
 父を待っていた喫茶店に、永倉重夫が入って来たのを見て、私は、目を見開いた。
「やあ、君か」
 と、永倉は、手を上げて、「部長と待ち合せ?」
「そう。あなたは?」
「僕も、ちょっと人と——」
「分った」
 と、私は肯《うなず》いて、「フィアンセでしょ?」
「まあね」
 永倉は、ちょっとためらってから、「お互い、相手が来てないようだから、いいかな、ここに座ってて」
 と、私の向いの席に腰をおろす。
「構いませんよ。彼女が怒らなきゃ」
「大丈夫。僕が女学生にこりているのは、よく知ってるからね」
「矢神さんのこと?」
「まあね」
 と、永倉は笑った。「——コーヒー! ねえ、君、どうなったんだい?」
「何のことですか?」
「立候補さ」
「ああ……」
 私が事情を話すと、永倉は、
「そんなことだろうね」
 と、肯《うなず》いた。「あの子は、表面強がってるけど、内心は凄《すご》く臆《おく》病《びよう》なんだと思うよ」
「矢神さんが、ですか」
「だから、絶対に勝てる相手としか、勝負しないんだ。君のような転校して来た子と、一年生を組ませて、勝手に届を出しちまうなんて、あの子のやりそうなことさ」
 なるほど。私は、そんな風に考えたことはなかったが……。
「しかし、誰かが、一度、あの子のそういうやり方をこらしめてくれるといいんだがね」
 と、永倉は言った。「本人のためにも、良くないと思うよ。このまま行ったらね」
「そうかもしれませんね。でも、私は、そんな役には向きません」
 と、私は言ってやった。
「どうかな」
「——どうかな、って?」
「矢神貴子は、決してみんなに好かれちゃいないよ。それは君にも分るだろ?」
「ええ。——でも、みんなやっぱり彼女に入れますよ」
「いや、そうとも限らない。貴子は、自分を取り巻いている子たちを信じてないからね。本当の意味での友人というのは、いないも同じさ」
「それも寂しいですね」
「うん。——あの時は頭に来たけど、貴子にしてみれば、僕に裏切られたような気分だったんだろうな。可哀《かわい》そうな子だよ」
 と、永倉は、コーヒーが来ると、ゆっくり口をつけた。
「でも、私も可哀そうですよ」
 と、私は言ってやった。「立候補する気もないのに、立たされて、コテンパンに負けるなんて」
「いや、君は結構、票を集めると思うね」
「へえ。同情してくれるんですか?」
「本気さ。貴子の言いなりにするのを面白く思ってない子は、いくらでもいるよ」
「分ったようなこと言ってる」
 と、にらんでいると、
「おい、何してるんだ?」
 と、声がして、父がやって来た。
「部長。——お嬢さんと、ちょっとお話をしていました」
「俺の恋人を取るな」
 と言って、父は笑った。
「じゃ、失礼します。コーヒー代は——」
「それぐらいは出してやる」
「ごちそうさまです」
 と、永倉が、馬鹿ていねいに頭を下げる。
 ちょうど彼女が来たようで、永倉は急いで店を出て行った。
「——何の話をしてたんだ?」
「うん。ちょっとね」
 生徒会長のことは、後で、ゆっくりと話すつもりだった。
「で、お父さんの方の用って?」
「うん。母さんのことだ」
 父は、ミルクティーを頼んで、少しためらっていた。
「——あんまり、いい知らせじゃなさそうだね」
「いや、そうでもない」
 と、父は首を振った。「考えようだ。まだ完全にはつかめてないからな」
「どういうこと?」
「いいか」
 と、父は身をのり出すようにして、「これは、母さんに絶対に内緒だぞ」
「分ってるよ」
「黒田のことは調べてみた」
 と、父は言った。「確かに、仕事の面では、なかなか真面目に、よくやっている」
「それで?」
「ただ——前にも一度、女性とのことで色々あって、離婚寸前まで行ったことがあるらしい」
「気が多いんだ」
「いや、生真面目なんだろうな。だから、適当に遊んでおけない」
「そういう言い方もあるか」
「奥さんとは別れることにした、と近所の人に話しているらしい」
「じゃ、話し合いはついたの?」
「弁護士を入れてどうこうってことだったな?」
「お母さん、そう言ってたけど」
「そういうことはないようだ」
「——というと?」
「もう、今は一人でいる。奥さんはいなくなったらしい」
「じゃ……」
「実家へ帰った、ということだ」
「それならいいじゃない。——もう、あの人も諦《あきら》めたんだ」
 刃物を振り回していた、あの奥さんの凄《すご》い剣幕を思い出すと、そうあっさり別れちゃうというのも妙な気がしたが、まあ、女心は分らないから……。なんて、私も女ですけどね、一《ヽ》応《ヽ》。
「うん……」
 父はそれでもなお、少しふっ切れない様子だった。
「どうかしたの?」
「ちょっと気になっていることがあるんだ」
「気になってるって?」
「その奥さんの方だが……。調査を頼んだ人間の話じゃ、近所の、仲良くしていた奥さんが、こう言ってたというんだ。『あの人は、出てったんじゃない』とな」
「どういうこと?」
「その奥さんが、何かの用事で、黒田の家に上ったらしい。黒田は、女房が実家へ帰っていて、と話していたそうだが、部屋に、奥さんの物が、全部残っていたというんだ」
「つまり——」
「いや、それはただの野次馬的な意見だ。しかし、調べてみても、奥さんが家を出るところを見たという人間は一人もいないんだ」
 と、父は言った。「今、調べさせている」
「何を?」
「本当に、奥さんが実家にいるかどうかを、だ」
 私は、じっと父を見ながら、
「もし——いなかったら?」
 父は黙って首を振った。
 もちろん、そんなことはあり得ない。でも……もしかして……。
 何となく、私たち二人は黙り込んで、いつまでも座っていた……。
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