日本人の笑い25

   江戸の少年法

 
 
  月を見るころには土手《どて》に薄《すすき》はえ
 
 中秋の名月を鑑賞する九月下旬になると、土手の薄もはえそろう。自然の摂理はまことに絶妙である。中国でいう「池塘《ちとう》春草」が、日本では俳句趣味で、名月のもとにそよぐ土手の薄となったわけだ。
  十六で娘は道具そろいなり
  十六になると文福茶釜《ぶんぶくちやがま》なり
 館林《たてばやし》は茂林寺《もりんじ》の寺宝の文福茶釜は、狸《たぬき》のばけもので、昔から「文福茶釜に毛が生えた」とうたわれている。ともかく「十三ぱっかり」と「毛十六」は、最大公約数である。そこで、
  正直にお七はえたと申しあげ
  はえたのでお七はどうも許されず
という句が生まれたわけだ。
 西鶴の「好色五人女」の一人として、事件後三年目に早くも文学に登場してヒロインとなり、最近ではアメリカとソ連で訳されて、世界的な恋人となった本郷の八百屋の娘お七が、火事で焼けだされて結ばれた恋人の吉三郎に会いたさに、放火してつかまり、鈴《すず》ヶ森《もり》で火刑に処せられたのは、天和《てんな》二年(一六八二)、十六の年ということになっている。
 その時、お七があんまりかわいそうなので、老中の土井大炊頭《どいおおいのかみ》が、お七こと「十五歳ならば科《とが》も一段引下げて申付くべき間、今一応お七が年を吟味あるべし。」と、奉行《ぶぎよう》に命じた。放火は当時、火あぶりの刑ときまっていたのだが、十五歳以下なら親類にあずけておき、十五になって島流しという少年法があったので、それを適用して助けようとしたわけだ。
 ところがお七は正直に、はえました、十六になります、と申しあげたので、奉行といたしてはどうにも許すわけにいかなくなった、というしだいである。
 さて、今どきは二十五、六が嫁入り盛りとなったが、江戸時代は十年はやく、文福茶釜のころが適齢期であった。もちろん婚礼の日取りは、その期間をさけてきめるわけだが、不順の向きも多いことだから、
  婚礼を笑って延ばす使者が立ち
  仲人《なこうど》へ四五日のばす低い声
ということになるのは、やむをえない。
 しかし、これなどはまだよい方だ。その日の朝までなんともないので、はればれと嫁入りしたのはよいが、
  気の毒さよめった夜からおえんなり
ということになっては、万事休すである。ここに「おえん」と申すのは、例の隠語の擬人名であるが、これは猿猴坊《えんこうぼう》の省略である。猿猴坊ではいかめしいから、女らしく「おえん」といって、来潮中の女の代名詞にしたわけだ。それではなぜ猿猴坊(手長猿)と言い出したのかというと、猿の顔と尻が赤いからではない。日本画に、手長猿が四、五ひき手をつないで崖にぶら下がり、谷川の水にうつった月をとろうとしている構図がある。そこで水の月、月水はいくら手をのばしてもとることがならぬというしゃれだ、という説がよいだろう。
 だが情がうつってくると、もの珍しさも手伝って、手にもとられず、というわけにはいかなくなる。
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