平の将門22

 夢大きく

 
 
「小次郎、お身も、勉強したいのか」
「したい」と、小次郎は、率直に、繁盛に答えた。
「奨学院へも、勧学院へも、入らないで、雑色なんかして働いていてはだめだ。体が疲れて、勉学など、思いもよらぬ」
「でも、奨学院へは、在原氏。勧学院へは、藤原氏の子弟でないと、入れないのでしょう」
「校則は、そうなっているが、右大臣家から、たった一言、お声をかけてもらえば、なんでもないさ。博士たちも、学者はみな、貧乏だから、袖の下も欲しがっておるし、方法はいくらもある」
「そうでしょうか……?」
「また、正面からいっても、そうじゃないか。おたがいは、坂東の地方豪族の子に生れ、公卿でも、藤原一族でもないが、系図からいえば、正しく、桓武天皇から六代めの孫たちだ——帝系じゃないか、われわれも」
「そうだ。なるほど……。けれど、右大臣家に、身をおいても、まだ一度も、忠平公からお声をかけられたことすらなし——どうして頼んだらいいだろう」
「わしのいる御子息の九条師輔さまのお館へは、折々、わしの兄が、管絃のおあいてに召されるから、そのとき、兄に話しておいてやろう。兄から、師輔さまへ、師輔さまから、父の君の忠平公へと、頼むようにすれば、きっと、お耳に達するだろう」
「おねがいします。まだ、お会いいたしませぬが、兄上の貞盛どのにも、どうかよろしく、仰っしゃってください」
「よし、よし。心配するな……」と、繁盛は、のみ込んで、別れかけたが、またふと、足をもどして——
「おい、小次郎。近いうちに、もひとり、坂東者が、きっと、右大臣家へ顔を出すぜ」
「へえ。誰ですか」
「九条家の者から聞いたのだが——下野《しもつけの》国《くに》安蘇郡《あそごおり》田沼の土豪で、俵藤太秀郷《たわらのとうだひでさと》というのが、なんでも、下野ノ牧の馬やら、たくさんな土産物をもって、お礼に上ってくるとかいうはなしだ……。九条家へも、右大臣家へも」
「下野の秀郷の名は、私の郷のほうへも聞えています。けれど、その秀郷は、私がまだ豊田郷にいた頃に、何か、大きな争いを起して、流罪《るざい》になったとかいう評判でしたが」
「それが、一昨年《おととし》、赦免になって、下野に帰っていたのだ。一年は、謹慎していたが、もう、よかろうというので、都上《みやこのぼ》りさ。……もちろん、そのお礼のためにだよ」
 その日は、それで別れた。
 しかし、繁盛と会い得たことから、彼の希望は、一そう大きく膨《ふく》らんでいた。ほかの雑人たちと一つに、舎人の屋《おく》の板じきに、素むしろを敷き、蚊に喰われ、奴僕生活の貧しい中にあっても、小次郎の夢には、未来が自由に描かれた。学問もし、人間もつくり、はやく故郷に帰って、弟共をも安心させたい。同族の輩にも、よろこばせたい。そして、父が遺してくれた莫大な田産《でんさん》と家門とを経営する身にならなければならない。
 ただ、わずかに、不平だったのは、
(従兄たちは、ああして学業を終え、みな、低くても、位置を得ているのに、どうして自分のみ、いつまで、こんな牛部屋の隣に住み、学院へも入れられずに、きょうまで放ッておかれたのか?)
 という不審だけであった。
 しかし、彼は元来、もの事を、善意にうけとる素朴な本質と、人を信ずる純一な性情がつよい。で、こういう疑問がわいても、彼が彼にする答えは、
(きっと、大叔父の国香が、おれに持たしてくれた添え状に、そんな事まで、細かに書くのは忘れていたからにちがいない。——そして、忠平公も、あんな暢気《のんき》なお方だから、おれが仕えていることも、迂《う》ッかりしておいでになるのかもわからない。……だが、こんどは、従兄の貞盛から、話してくれれば、ああそうかと、お気がつかれる事だろう)
 ひたすら、彼は、その吉報を、待ちかねた。——繁盛から、何かいって来てくれる。あるいは、突然、忠平公から、
(——小次郎。庭さきへ来い)
 とでも、家司を通じて、おことばが、かかるかと。
 待てば、長い。なかなか、なんの吉事もない。
 八月。——秋の初めである。
 ある日、小一条のやかたに、一群の訪客があった。
 訪客たちは、遠国からの人々らしく、同日、市坊《しぼう》の旅館に、旅装をといて、あらかじめ、使いをもって、右大臣家の内意をうかがい、衣装、髪かたち、供人などが担《にの》うて来た土産の品々まで、美しく飾りたてて、いとものものしく門へ佇み並んだものだった。
「これは、東国下野の掾、俵藤太秀郷にござりまする。越し方、かずかずの御鴻恩にも、たえて、親しゅうお礼も申しあげず、御不沙汰をかさねておりました故、いささか、国《くに》土産《つ と》なと、おん目にかけばやと、まかり出てござる」
 ひとり、秀郷だけ、内へはいって、ほかの郎党は、平門にのこし、こう、大臣家の上達部《かんだちめ》へ、申し入れた。
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