贋食物誌59

     59 番茶㈪

 
 
 小島貞二さんを知らない人に説明するには、イレブンPMの人気番組である女相撲大会で解説役をつとめているベレー帽の人といえば、わかりやすいだろう。
 昭和十年代に出羽海部屋にいた力士という異色の経歴で、現在では芸界やスポーツについての文章を書いている。
 この人と会って話したときにも、神田連山の名前が出た。それに関連して、芸界の奇人についての話題になった。
 小島さんにいわせると、奇人三傑といえば、志ん生・三亀松・呼び出し太郎(すべて故人になった)だ、ということになる。
 落語について語る資格は、私にはあまりない。戦争末期から戦後混乱期の十年ばかりは、いろいろ忙しくて落語まで手がまわらなかった。
 いま大へん評価されている可楽でさえ、残念ながら知らない。
 ところが、余計なことを覚えている。高座の終りに頭を下げて、引上げて行く客を見送る役を「おそうじ番」というそうだが、いまでもその姿かたちが鮮明に眼に浮んでくる噺家《はなしか》がいる。
 子供のときの記憶なのだが、ふしぎなものでそのときの人の名まで覚えていて、これが柳亭左楽である。その道に精《くわ》しい人にたずねてみると、芸はたいしたことはないが当時の落語界のボス的存在だった、という。
 私が一番好きだったのは、志ん生である。破格というかアブストラクト風といおうか、そのくせ噺のつづいてゆく糸は切れないところが、まことによかった。「寝床」の番頭が、旦那の下手な義太夫を無理に聞かされて、蔵の中に逃げこむ。そこへ旦那が窓から義太夫を吹きこむ。
「それで、その番頭いまどこにいるんだい」
「ドイツに行っちゃった」
 というアドリブを戦後に聞いて、その間《ま》の良さに、爆笑しながら感服した。
 志ん生と対蹠《たいしよ》的な文楽も好きで、よく「きっかり枠《わく》に嵌《はま》った芸」といわれるが、日常生活では、なかなかシャレた人であったようだ。
 以前東京に大水が出て、下町では胸までつかるほどになった。翌日はいい天気で、水がすっかり引いてしまったころ、文楽が長靴にサシコ姿で、
「どうだい」
 と、見舞いにきた、という。この話は三亀松に聞いた。
 その志ん生だが、小島さんの話では、戦争が終ったとき満洲にいて、いつ帰れるか分からないし、生計の立てようがないので、死んじまう気になった。どうせ死ぬなら好きな酒で、とウオッカを六本一ぺんに飲んだが、なんともなかった。これは大変なことで、よほど生命力があるというか心臓が強いのか、焼酎《しようちゆう》一本を一息で飲んで、死んでしまった人は、しばしばある。血液中のアルコール分の濃度が高くなり過ぎて、死んでしまう。
 やはり、異常人物である。
 残念ながら亡くなったが、そのときを境にして息子の志ん朝がにわかに上手になった。これは、なにか分かる気がする。
 その前までは、噺の途中で「うん」という言葉が無関係のところで多すぎて、甚だ耳ざわりであった。言葉に詰まると、そうやって誤魔化していたのだろうか。
 先日の国立劇場での「火焔《かえん》太鼓」には、この「うん」が一つもなかった。顔つきまで志ん生に似てきて、あと何十年かすれば、そっくりの顔になるのではないか。
 ただ、驚くほど上手にはなったが、もう一つ味が薄い。これは年月を待てばよいだろう。専門外のことの批評をして、ごめんなさい。
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