贋食物誌57

     57 ヨーグルト

 
 
 昭和二十五年だったか、戦後混乱期では一年の違いが大きいのだが、そのころのことである。
 自宅の三和土《たたき》の上に置いてあった、買ったばかりの靴を盗まれた。
 戦後一年くらいは底の抜けかかった靴をはいていて、復員してきた友人が見兼ねて新品の軍隊靴を配給の酒と取替えてくれた。
 昭和二十一年に、靴は四百円くらい、月給もそのくらいなので、買うことは紙の上の計算では不可能なのである。
「どうせ盗むのなら、もっと金持のところへ行けばいいのに」
 と、そのときはショックを受けた頭の片隅で考えた。
 しかし、その後相手の心もちが分かるような気になってきた。大きな仕事はできないコソ泥なので、かりに金持の家の玄関から靴一足盗んできても、「オヤ靴を盗まれたか」くらいで済んでしまう。
 それでは面白くないので、金のない家を狙い、途方に暮れたような気分にさせる。一種の近親憎悪的気分ではあるまいか。
 先日、テレビで戦後の回顧番組をみていると、税金の払えない下町の家に、歳末に税務署のトラックが横付けになった。
 つまり、差押えで、蒲団までトラックに積んで走り去っていった。税務署のそういう役目の連中も、おそらく貧乏であろうから、これも近親憎悪的なものだろうか。その点、山の手の税務署はいくぶん鷹揚《おうよう》で、私も何度も差押えの通知を受けたが、実地検証にきた役人がアキレてタダにしてもらったことがある。
 安岡章太郎と知り合ったのは、二十七年だが、そのころもそれよりいくらかマシな程度の状態だった。
 ヤスオカはファッション雑誌の翻訳のアルバイト、私は小雑誌社に勤めていた。彼はしばしば遊びにくるのだが、一応私の勤め先の近くから、公衆電話をかけてくる。
「あと十分も待ってくれれば、仕事が片づく。その電話の近くにミルクホールがあって、ミルクは一杯二十円である。ところでな、もう五円フンパツすれば、ヨーグルトというものが食べられる。これは旨《うま》いぞ」
 と、私が答えたという話を、ヤスオカはしばしばする。
 丁度ヨーグルトの草創期に当っていたのだろう。
 私の勤めていた社の社長は、いわゆる文化事業とまったく無縁の人物で、なかなか面白いのだが私の耳には突飛に聞えることをしばしば言う。
 芥川賞の候補に私がなったころ、そのことを知った社長が、
「おめえも、ものを書いてゆくつもりらしいな。丁度いま、下の部屋に講談のエライ先生がみえているから、話を聞いてなにかゴシップでもつくって雑誌に載せな」
 閉口したが、好意から出ている言葉だと分かるので、「へい、かしこまりやした」と下へ行ってみると、十歳くらい年上にみえる講談の先生がいた。
 記事はつくらなかったが、以来二十数年「あのときの人は、誰だったのだろう」と、ときおり思い出していた。
 三年ほど前、銀座のキャバレー・ハリウッドで飲んでいると、一人の男が近づいてきて、
「あなたとは、二十年ほど前に会ったことがあります。あたしは講談の神田山陽で」
 と、名告《なの》られて、「あ」とたちまち話が通じた。
 私としては職業ちがいの山陽先生がよく覚えていたと驚いたが、山陽さんのほうも私の思い出し方の素早さに驚いたかもしれない。
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