世界の指揮者07

  ニューヨークの一件があってあと、十何年して、私はベルリンでセルをきいた。再びというより、この時がはじめてのようなものである。最初の時は腹を立てすぎていた。

 ベルリンでのプログラムは、ヴェーバーの『オベロン序曲』と、バルトークの『ヴァイオリン協奏曲第二番』(パイネマンの独奏)、それからシューマンの『交響曲三番』というものだった。こう並んだだけでも一流の指揮者のプロとはっきりわかる。協奏曲のことは省略しよう。『オベロン』は実に端然たるものだった。どんなフレーズの意味も、いや副次的な線の形も鮮かに出るうえに、騎士的な躍動もあるのだが、ヴェーバーのあの暖かい、夢みるようなロマンティシズムは出ない。
 しかし、セルが何ものであるかを、いちばんはっきりわからせたものは、シューマンの交響曲だった。これは並々の演奏ではない。
 シューマンの交響作品には、問題が少なくない、というのが通説である。私は、ここでは、シューマンがベートーヴェンみたいに、ブラームスみたいに交響音楽をかく力がなかったという問題には深入りしない。しかし、彼の楽器編成のうえでの問題は、よけて通るわけにはいかない。
 かわいそうな天才ローベルト・シューマンはオーケストラのために書く時、いわばモーツァルト的な、音のテクスチュアの透明と輝かしさも発揮できなければ、ベートーヴェンのあの抵抗感と重量感のある音響も得られなければ、ベルリオーズ、R・シュトラウス的な多彩にして豪華な響きも楽器のソロ的組合わせも手中のものとすることができなかった。彼は、とかく、弦、木管を重ねすぎ、結局どの楽器の音もその特性を失い、音の艶《つや》と輝きも出せぬ中間色的なもので全曲を塗りつぶしてしまう。そのうえ、最大の欠点は、高音域と中声と低音域との音の配分が悪いために、バランスが失われがちな結果をひきおこす。
 シューマンの指揮者は、いわば、どこかに故障があって、ほっておけばバランスが失われてしまう自転車にのって街を行くような、そういう危険をたえず意識し、コントロールしなければならない。あるいは傾斜している船を、操縦して海を渡る航海士のようなものだといってもよいかもしれない。
 それを、セルは、見事にさばいてみせた。第一楽章の、あの三拍子なのに四拍子みたいに聞こえる、奇妙にシンコペートする主題の提示からはじまる音楽以下終楽章にいたるまで、一貫して見事な手綱さばきを示したほか、彼はこの音楽の中に、どんなにたくさんの詩趣と誠実との貴重な結びつきが隠されているかを、あますところなく、鳴らしてみせた。
 シューマンが、ほっておいたらとても真直に立っていられず、右に、左に傾斜するオーケストラ曲を書いたのは、また、彼が、一方ではまったく霊感にたよる純粋に心情の人であると同時に、もう一方では、やたら知的抽象的な着想から出発する、いろいろな頭脳的細工を加えるのを好み、低音に無理な対位線を書きこんだり、和声のごく自然な流れに逆らってまでリズムを交錯させたりといった《技巧》をこらす癖があったからである。この交響曲から一例をひろえば、第二楽章のハ長調のスケルツォに、イ短調のトリオを対置さすのだが、そのトリオにホルンのハ音の保続音(オルゲルプンクト)を置く。当然、和声の響きに無理が出る。だが、シューマンは、トリオのあと、スケルツォをイ長調で戻らせたうえで、もう一度、トリオを再現さす。だが今度は、もうハ音の保続音はない。和声はずっとすっきりする。
 こういう時、指揮者は楽譜に書いてあるままに、オーケストラを響かせるか、それとも、ハ音をどうさばくかについて、当然選択を迫られるわけである。
 セルは、トスカニーニの流れをひく、ザッハリヒな様式の指揮者ということになっているが、実際にことに当たってよくきいてみると、そう簡単にはいかないのである。
 さっきのセルの言葉を思い出していただきたい。「管弦楽の響きの等質性」と「どの部分をとってみても、一つまたそれ以上の主要声部が同時にほかの声部によって伴奏されうるような完全な柔軟性をもち、そのうえに適正なバランスを保持するような、そういうアンサンブルの完璧《かんぺき》さ」。そのためには、今例にとったトリオの中でのハ音は、しっかりと全体のテクスチュアの中に腰をおろしているうえに、同時に流れるイ短調の主要声部の歌うような旋律性をあますところなく発揮しなければならない。しかも、このトリオはごく素朴なレントラーの様式で書かれていて、複雑なニュアンスを嫌う。
 こういうことができる指揮者は、世界に何人いるだろうか?
 それに、私はまったく驚嘆したのだが、このスケルツォのハ長調の簡単な旋律につけた、フレージングのニュアンスの精妙さ! その精妙さは、もっぱら明快な的確さから生まれるのだが、それでいて、この旋律が何度も提出されるそのたびに、私たちは否応なく魅了されてしまうのである。
 私は、少し細かいことを述べすぎているように見えるかもしれない。もしそうならば、それは、私の記述が、未熟だからにすぎない。実際にセルの指揮するこの交響曲をきけば、音楽は、本質的には、最良のロマン派のあの素朴で、しかも真情にあふれた民謡を根にもった交響音楽にほかならないのだ。セルがクリーヴランド管弦楽団を指揮したシューマンの交響曲全四曲、それに『マンフレッド序曲』と『ピアノ協奏曲』(独奏はレオン・フライシャー)をおさめたレコードが出ている(アメリカ盤EPIC・STEREO・BSC一一〇)。これは、私のきいたベルリン・フィルとの演奏と完全に一致するものではないが、しかし、実にすぐれたレコードである。
分享到:
赞(0)