決められた以外のせりふ33

 西洋人演出家

 
 
 私たちの劇団「雲」では、一昨年から、西洋の演出家を招いて、西洋の芝居の演出をしてもらう試みを、三回おこなった。
 イギリスからは、オールド・ヴィックの演出家であったマイケル・ベントール氏が来てくれた。ローレンス・オリヴィエやラルフ・リチャードスンや、リチャード・バートンやピーター・オトゥールなど、イギリスの一流俳優たちを演出している現役第一線の演出家である。ベントール氏はシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」を演出した。
 フランスからは、演出家でもあり、俳優でもあるジャン・メルキュール氏が来た。モリエールの「ドン・ジュアン」を上演した。メルキュール氏は、映画にもよく出ていて、ジェラール・フィリップの「赤と黒」のラ・モールなんかが、代表作と言えるかも知れない。
 アメリカからは、アメリカ近代劇史にのこる三〇年代の「群衆劇場」の指導的演出家、ハロルド・クラーマン氏が、五人の俳優をつれてやって来て、ユージン・オニールの悲劇「夜への長い旅路」を演出した。私たちは一カ月にわたるその稽古を見学し、後に自分たちの手で同じ作品を上演した。
 このクラーマン氏の場合だけが、いわば間接的演出であり、ベントール氏とメルキュール氏の場合はまったくの直接的演出で(厳密に言うと、通訳がいたから直接ではないが、その点を除けば)、両氏はそれぞれ自分の国でする通りの稽古を、私たちに課したのであった。
「いや、実をいうと、本国ではこんなにたっぷり稽古は出来ない」とベントール氏が言っていたのを思い出す。「イギリスでは、古典劇は、一カ月ぐらいの稽古というのがいちばん多い。稽古が長くなると俳優費がかさむからだ。今度のように、『ロミオとジュリエット』を二カ月も稽古出来るというのは、演出家としてうれしいことだ」
 この三人の演出家は、それぞれに、はなはだユニークな演出をして、私たちをびっくりさせたり、感心させたり、楽しませたり、絶望させたり、興奮させたりした。
 ベントール氏——堂々たる体格の紳士。ライオンのごとき声、風貌。演出プランは綿密周到、読み合せの初日に、もう、衣裳、装置、音楽、音響、照明、すべてのデザインが出来上っている。さっさと手際よく動きをつけてゆく。要所要所で、その場の演出意図をよくひびく声で話す。しばらく様子を見ていて、具合のわるい所は、ガラリと動きを変える。豪放のようで、よく光る眼は、いつも神経質にまたたいている。
 メルキュール氏——小柄で、敏感で、おしゃべりで超精力的な演出家。一日中しゃべり通し、動き通しである。万事、現物に当りながら、現場でこしらえあげてゆくタイプ。三分ぐらいの場面に、一時間以上かける。演技指導の猛烈なことはずば抜けていて、役者はみな、野球でいえば千本ノックを連日浴びせられた。六時間の稽古のうち、休みは十五分一回だけ、その休み中もダメ出しの嵐。舞台稽古は殆ど夜明かしで一週間。若いスタッフがみんなのびてしまったのに、この還暦ちかい演出家はケロリとしていた。
 クラーマン氏——肥った、辛辣《しんらつ》な老人。役の感情、主題の展開との関連をじつにたくみに捉え、説明する。強調の確かさ。彼の説明の仕方は、はなはだドラマチックな効果を発揮する。大きなジェスチュア、雄弁、満面朱を注いだ意気ごみ。そして、ダメ出しの後、役者をリラックスさせる絶妙のユーモア。
 三人三様の演出ぶりであったが、その演出を通じて、私たちはそれぞれの国を代表する劇作家のいちばん深い部分にふれたという実感を持つことができた。
 私たちは有意義な試みだと思っているが、こんなことにもいちいち文句をつける人があって、りっぱな伝統をもつ日本の新劇が今更西洋人の演出家から教わる必要はあるまいとか、西洋でやる通りに日本人に出来るはずがないとか、いろいろなことを言う。
 まるで、私たちが西洋かぶれ、西洋崇拝の哀れな連中だと言わぬばかりである。
 しかし実際は、そんな考え方のほうが、ずっと体裁にとらわれているので、つまり、西洋コンプレックスの裏がえしにすぎないのである。
 第一、いくら私たちがイギリス人にイギリスの芝居を演出してもらっても、イギリス人の役者のように演じられるはずはない。私たちは日本人で、日本語で芝居をするのだから、両者の間には越え難い溝がはじめからあり、この溝は消えることはないだろう。
 だから、向うの作品を、こちら側へ持って来て、こちら側のやり方で上演すればよいというのでは、話が乱暴である。
 また、むこうのやり方はもう十分分っている、今更ABCから始めることはない、というのも、思い上りである。私たちは「内面的感情を見失うな」「見せる芝居をするな」というような、昔から千万遍も聞いて耳にタコの出来ている言葉を彼等からも聞いたが、その指摘の仕方には鋭い剣で一挙に当の役者の存在の核心をつらぬき通す迫力があり、彼らの演出をうけることに、妙な言い方だが、その芝居を上演することから離れて、ほとんど独立した別種の喜びを感じたものだ。
 いずれにせよ、こういうことは、どんな利害得失があるはずだとか、どうあるべきだとか、理屈を言っている暇に、まず実行してみるに限る。
 藝術の他の分野では、西洋人の先生なんて、珍しくも何ともないことで、新劇だけが、今ごろそれを始めているわけだが、体裁なんか、どうでもよいことだ。頭をぶつけたり、足をふみちがえたり、痛い目にあえば、それが身につくのである。
 私たちはその手ごたえを、すでに感じている。
                                               ——一九六七年四月 話の特集——
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