『日本を読む』 09

「津田梅子」

 
 1868年明治維新になり、それ以後日本の近代化が急速に進められていったが、女性の地位は昔と同じように男性よりずっと低かった。ヨーロッパやアメリカを旅行し、いろいろ見聞きして来た明治政府の指導者の一人は、アメリカの女性には教養があり、その社会的地位も高いのに驚き、次のように考えた。
「立派な人間を育てるのには、家庭にいて子供の教育をする母親に教養がなければならぬ。教養のある母親をつくるためには女子教育をさかんにせねばならぬ。そのためには、女性を外国に留学させるべきだ」
 
 彼の述べた意見にもとづいて、政府は早速女性を何人か外国に留学させることにした。1871年、5人の若い女性がアメリカに送られた。そのなかに、7才になったばかりの津田梅子という女の子がいた。彼女はワシントン郊外のジョージタウンに行き、そこでアメリカの自由な教育を受けることになった。
 
 梅子は11年間アメリカで勉強した後、1882年日本に帰ったが、梅子を待っていたのは、未だに女性の地位が極端に低い日本の社会と、女性に対して保守的な考えを持っていた父親の封建的な態度だった。梅子の父親は、二度も外国にいった経験があり、進歩的な男性のはずだったが、梅子に対しては厳しく、自分に服従することを始終強制した。
 
 帰国してから3年後、政府の重要な仕事をしている人から、ある学校で英語教師の仕事をしてみないか、という話があった。梅子は、ちょうど父親の態度に抵抗を感じ、家を出たいと思っていたところだったので、すぐにその仕事を引き受けた。ところが、その学校の教育の目的が、夫に従う良い妻、家庭にいて子供を立派に育てる母親をつくること、つまり従属的女性をつくることだったので、アメリカで一緒に生活した家族から愛と信頼を受けて自由な雰囲気のなかで大きくなった梅子には働きにくかった。
 
 アメリカでの自由な生活が忘れられない梅子は、再びアメリカで勉強しようと、1889年フィラデルフィアの近くにあるブリンマー・カレッジへ留学し、そこで3年間生物学を勉強した。アメリカで生き生きとした女性の生活をみれば見るほど、日本の女性の地位を向上させる必要性を痛感し、日本に帰ったら、女性達のために仕事をしようと決意した。
 
 1892年に帰国したが、その頃日本には女性が高等教育を受けることができる学校は一つだけしかなかった。そこで、梅子は、自分で自由な教育ができる学校を作ろうと考え、8年後にとうとう東京に「女子英学塾(じょしえいがくじゅく)」という私立の大学をつくり、女性達の教育をはじめた。その学校が、今、日本で最も有名な女子大学の一つである「津田塾大学(つだじゅくだいがく)」になったのである。
 
 
☆ 次の質問に答えなさい。
 
1 「その社会的地位」(4行目)の「その」は何ですか。
 
2 「そのなかに、7才になったばかりの津田梅子という女の子がいた。」の「そのなか」とは何のなかですか。
 
3 日本を出発した時、梅子は何才でしたか。
 
4 梅子のお父さんは進歩的な人でしたか。
 
5 梅子が初めてアメリカから帰って来て、ある学校で英語教師の仕事をしはじめたのは何年ですか。
 
6 大学時代に梅子が将来日本でしようと決めたのはどんなことですか。
 
7 梅子は何年に「女子英学塾」をはじめましたか。
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